昨日は、大阪ユニオン神学大学で幕屋を学びました。

ご存知のように、幕屋の内部には庭があります。この庭が教会になります。聖所と至聖所がキリストを表します。以前に学び、本も読んではいましたが、改めて見直すと、いまの私の現状と比べて悔い改めに導かれました。

 教えて頂いたのは、韓国の6千人教会。徐明吉牧師先生です。幕屋に精通した牧師先生でした。

沢山のことを学んで、なにから書いたら分からないほどです。けれど、整理してみて、私が学んで感じたことを言えば、・・ 徐明吉牧師 1

 出エジプト記を見るならば、幕屋の事が書かれてあります。東側のの門から入り、犠牲を捧げる庭に入ります。汚れを洗う洗盤で私達の日常の罪の汚れを洗います。洗礼です。流される獣の犠牲の血はキリストの血と十字架の形です。告白して、自己の罪を認めるなら罪が許されます。

 でもそこは未だ、幕内であっても外です。風も吹き雨も降ります。世間 世の中が見えます。雨も風も吹き、砂漠の熱い太陽にも照らされ、雨も降り星も見えます。色々の人の動きも気になります。救われて教会生活をしても試練や苦難、患難があることに似てます。外の幕屋の形や、文様にも意味があります。

 また、聖霊様にも触れられ、時には満たされることももあります。外の幕屋は、私達が第一に集まる所です。それは教会でもあります。多くの方々はここの場所で満足しているのが、日本の現状かも知れないです。講師の先生の信仰とにじみ出る人格、信仰を見て、ただ単純に思いました。さて聖霊の内住によって次の段階に進みます。

 次に進むところで聖所です。燭台の光だけで外部とは遮断されています。燭台の光はキリストです。<主の言葉は、私の足の灯。詩編の言葉より。>色々の道具があります。それにも意味があります。その道具を使い、神に仕えます。道具は私達の個性、人間性、信仰です。自分から動きもします。道具も使います。働き 求め 捜します。日々の備えの丸い形のパンがあります。丸い形は、エンドレス。永遠のキリストの体を裂きます。

 次に至聖所進むなら、ケルビム(羽を広げた天使)の間で、神が私達とで合います。さらに暗いところですが、神の栄光の光だけがあり、私達はだだ神だけを礼拝賛美するだけで、道具は使いません。自分からは何も出来ません。動いても行けません。自分からの願いの祈りも出来ません。神の命令通りにしか動けません。

 その命令とは、ただ神をを求め(神の国と義だけの世界)ます。ここでは完全に自己に死んで、キリストの命の中に生きる復活する世界です。ここに到達するなら、神は、私達の必要を満たされます。申命記に書いてあるように、神自ら約束して下さったように、神様のほうから、動いて下さり、神ご自身が語られた全てのことをして下さいます。神が私達への親交を深め、私達の霊性を整えさせて下さり、全てを豊かにさせてくださり、病もなく災いも遠ざけて下さいます。この至聖所で私達は三位一体の神と出会いをしなければならないのです。

 神の思いと違った動きをするならば、私達は神の怒りに触れて死にました。(主よ! 主!と言い、預言をし、善行をし、病を癒して来たではないですか?と言う者が救われるのではない。とイエス様が言われたこと同じ意味です。)

この至聖所でどれだけの方が、・私自身が神様と出会い交わっているのだろうか?と悔い改めためた日でした。

どうぞ、同じ神を礼拝をする私達です。私達も至聖所で、神と出会い相交わりませんか。今日。改めて幕屋を読み学んで悔い改めをしております。
幕屋

休憩中に話題になったホセアはキリストの形、神の命令によって遊女の女ゴメルを妻にします。
彼女は子供まで産みました。とんでもない名前の子供です。その後。ゴメルは罪を犯します。
そんな妻を、ホセア(キリスト)は許しました。 私自身も、この妻のように、何度もキリストから離れ遊び(クリスチャンになってからも)罪を犯し放蕩したこともあります。それでも、イエス様は、私を見捨てずに。私の主なる神となって下さいました。この深い父なる愛に献身したいと思い祈っています。

今日は特に幕屋を 聖書を、記述者の体験と彼の視線に立って読みました。神からの視線で聖書考えました。至聖所の出会いを神は求めておられることを、今日、再々の確認しました。

ケルビムの間で、神の臨在に触れられるときに、神からの一方的な恵みと祝福に預かれます。聖霊にも触れられます。癒しもあります。心、体、人生の癒しが、回復があります。 主の癒しは3種類があります。医療行為的な癒し=目に泥を塗る。私達の信仰を確かめ見てからの癒し。神からの哀れみと一方的な恵みの癒しの三つの方法です。それらを通じて完全な 心と体と人生の、信仰の癒しがあります。

キリストが十字架にかかられたときに、至聖所を仕切っていた幕が天から裂けました。神ご自身の方から、聖所へ出て来られました。聖霊が下る予表でもありました。大祭司しか入れなかった場所から出て下さり、私達の間にすんで下さり、私達の体を宮として下さることが凄いことです。 神様を期待し待ち望みつつ、主にありて… 小栗