神学大学の礼拝でメッセージを話しました。

 大阪の神学大学で日曜礼拝のメッセージを依頼され、アブラハムの物語、創世記15章1節から話をしました。この盾と言われたのは前の章14章で、甥のロトを救い出すために、アブラハムは戦いをしています。普通ならとても勝たないような力ある軍隊でしたが、神の助けもあったのでしょうけれど、奇跡的な勝利を経験していました。

 聖日礼拝4/18 web1のコピー神は私たちが日常経験しなかったことを、話題にはなさらないですね。ここに至るまで、アブラハムは、神に献身するために3度の試練も合格してきました。また、アブラハムが戦った軍隊は、現代に例えるならアメリカ軍に、同盟破棄をして日本が戦うような物でした。ですから、アブラハムに神が盾だと言えば、すんなりと納得できる言葉でした。

その盾であると聞いて、彼アブラハムは直ぐに彼の問題を、神の訴えています。それは子供がいないことでした。すると神は外に出て、星空を見るように語られました。私は仕事で滞在していたメソポタミア砂漠で、彼が見上げたような同じ満点の星空を見上げたことがあります。それは日本では、肉眼では決してみられない星々までが見えました。砂漠の中の星々がありました。子孫が星のようになる・・永遠の時間をアブラハムは見つめることが出来ました。彼はそのことを通じて、神の言葉を信じて義とされました。
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 信仰によって義とされたのちに、契約を結ぶ儀式をするから、生け贄を用意するように、アブラハムに、神は語られました。アブラハムも直ぐに生け贄を用意しましたが、契約実行は直ぐになされません。神がその契約に直ぐには立ち会わなかったのです。アブラハムは神が立ち会われる時を待ち続けました。その間、猛禽がその生け贄を狙って襲ってきました。アブラハムはそれらを追い払い、神が立ち会う時を待っているといると、とうとう日が沈みました。暗い闇が彼を襲います。砂漠の暗闇の経験を私は経験をしています。鳥肌、髪の毛が立つと言うよりもっと恐怖が襲います。広い砂漠の暗闇の中にたった一人ですから・・また眠気も襲いました。猛禽に代わってオオカミ、狐などの野獣も<この箇所、15章には書いてはないですが、信仰を奪おうとするサタンも心の中に入り込むことさえあります。・・>来ます。
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 私たちの生活に目を移すなら、神からの使命に応答し献身を捧げていても、祈りの生活をしていても日常の中に苦しみや試練。理解に苦しむ出来事が次々と、私たちの周りに、生活の中に起きてきます。まるで次々襲いかかってくる猛禽や獣のように・・神が契約の実行を待っている、アブラハムに、神はなんと、子孫の将来を告げられます。その告げられたことを私たちなら直ぐに飲み込めるでしょうか? 待望している子供、そして孫が奴隷になると言われ、しかも400年かも奴隷になると言われたら・・普通なら子供や孫の幸せを願う父なら、直ぐにハイとは言えない条件でした。
聖日礼拝4/18のweb生け贄を半分に分けて、牛や羊、山羊の片身は神の物であり、もう一方の片身は契約者が本人が食べることが習わしでした。引き裂かれた物の血を食べて、体の一部となり意味があります。これはキリストの肉体が引き裂かれ、私たちの物として肉が裂かれ、血ながされて犠牲となったことの形を表します。それにしても、神は何故、直ぐに事を始めないのでしょう?

 天地を創られてから、7日目に休まれた神です。神には神の時間や考え方があります。アブラハムをカルデア地。ウルから呼び寄せ・・私たちに使命を与えて下さり、その完成が順調に進まないのでしょうか?実際にアブラハムに子供がサライから得たときが100歳でした。私たちの想像を超えて時間がかかっています。私たちに、キリストに在って夢が与えられていても、何故?順調に事が進まないのでしょう。聖日礼拝4/18 007


 此処で覚えなくてはいけないことがあります。私たちは神の計画によって、キリストによって買い取られた土の器だと言うことを・・神の計画遂行のために買い取られた器であることを・・私たち自身のビジョン、希望・与えられた使命さえも神の計画の一部の中に在ると言うことです。アブラハムに突きつけられた・・子孫が一旦は奴隷になるが、後の世には大いに祝福される。神の計画にアブラハムも・・私たちも、神の計画に合わせて・・。獣を引き裂いたように、キリストによって、十字架に私たち自身が死に、自己の思いから清められないと、神はご自身の計画の実行を遅れさせ休まれるのです。

その間。神によって、私たちは整えられ訓練させらます。十字架の死を信じる信仰によって義とされます。十字架に私たちが死んだときに、自分たちの限界をこえたときに神が動かれます。聖日礼拝4/18 029どのような状況下におかれても、私たちが神様に服従できるように心が整えられる時を、神様は待っておられる気がします。さらなる献身を神に捧げてゆきたいと思います。

 あってはならないこと。それは神への不満や罪ではないでしょうか?
イザヤ59:1〜2には「神の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。あなた方の咎が、・・あなた方の神との仕切りとなり・・聞いてくださらないのだ」とも書いてあります。 神への服従と清め。自分自身の力、能力でもなく、時には信仰でもないところ、神の計画に心から従えるときに。『神は私たちの盾.』となって下さるのです。 アブラハムは形だけの犠牲ではなく、心からの犠牲と服従を捧げたと思う時に、神は、その決心を見られたときに、煙立つかまど。燃えるたいまつのような火が、アブラハムの用意した犠牲の生け贄の間をと通りました。私たちは神に生け贄の代わりに、キリストへの服従を捧げてゆきましょう。

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ユニオン神学教会では、日曜日の午前11時から礼拝を捧げております。皆様のご参加を歓迎します。住所は大阪市西成区萩之茶屋3丁目4−23 電話06−6632−0124