今週の火曜日、組織神学の基礎を学ぶ
大阪の神学大学で組織神学を神戸の国際キリスト教会の岩村義雄牧師先生から、組織神学の基礎を学びました。一口に組織神学と言っても、その神学を組み立てた著者の信仰背景も影響します。ルターは体系的は神学を書きませんでした。当時のカトリックの司祭神父しか見られなかったラテン語の聖書が、印刷技術の発見発展で聖書が、私たちの身近になりました。それまで聖書は、日常生活とかけ離れた存在でした。
当時のカトリックの犯した過ちの免罪符ではなく、信仰によって義とされることをルター聖書を通して知りました。 神学にはカール・バルトとか、カルバンの神学もあります。他にもヘンリー・シーセンの神学もあります。けれど、それぞれの立場から聖書を見て調べています。
それが教義神学です。教理を組織的にまとめた特定のクリスチャン.グループの教理の研究です。例えば、カルバン主義の神学やディスペンセイション主義の神学などです。 特に教理神学には、その教理を主張するグループの主観も入ります。パウル・ティリッヒ。チャールズ・ホッジ。 ルイス・ベルコフと言う神学者が有名かな?それそれの立場からの神学です。
それに比べると組織神学は忠実に、聖書を調べて、私たち人間の主観や思い込みを排除して組織的に聖書を理解し、他の人にも教えるのを助ける重要な道具の一つなのです。systematic theologyとも英語では言います。
聖書は聖霊に満たされた旧約聖書の人々。キリストの言動。パウロに代表される各地のクリスチャン達に当てた手紙から構成されています。当時のクリスチャンもユダヤ人であっても、 ヘブル語、アラム語以外にギリシャ語を話していました。
一度は、神学校を卒業はしていますが、私がもっと聖書を知ろう。学ぼうと、今の神学大学に入学を希望する動機の一つになった言葉が聖書に書かれています。使徒17;11『非常に熱心に御言葉を聞き、果たしてその通りかどうかを聖書を調べた。』?ペテロ1:10『その救いについては、あなた方に対する恵みについて預言した予言者達も(現代で言えば牧師信徒とも言えませんか?)熱心に尋ね、細かく調べました。』 私は伝道者として国内外で宣教をしてきましたが、一つの教会を育てる、教えるためにはもっと聖書を知ろう。と思ったからです。
講師の岩村先生も、この聖書箇所(上記)を用いて、教理以上に言語に忠実に、聖書を調べる事が大切と力説されました。岩村牧師先生の人生での経歴もユニークだと思いました。キャラクターも溢れて、大変熱心に教えて頂きました。
聖書は.私たちの人生の足元を照らす光です。学長の李牧師先生は、在学中には聖書通読を50回はするようにと勧めておられます。頭に込めと言うことです。 昔。わたした滞在していたアラブ諸国では、イスラムのコーランを空で言えるように、幼い時から叩きもまれます。日本ではないですね。
岩村先生からは、聖書言語から外れた聖書解釈の危険性も教えて頂きました。例に癒しというギリシャ語を用いられました。ギリシャ語の癒しには2つの意味があると言われました。治療と手当。奥様の癌からの回復の経験を語られました。もう一つは神癒です。 主イエスはこの二つを用いておられました。と教えて下さいました。これらも、感情や思い込みを排除して、聖書になんと書いてあるかを調べる事がいかに大切かを語られました。講義を受けながらギリシャ語やヘブル語を知りたいと思うようになりました。
聖書をもっと詳しく知り、御言葉を心に蓄えて、キリストの葡萄木につながり豊かな実を結びたいですね。そういえば・・聖書には、『私の名前で祈るならば何でも答えられる。』ヨハネ15:14間違った解釈があります。しかし、これには条件があります。主の言葉・・聖書の言葉教え、神の願われる律法<十戒など>を含めて心に留まり信じ、行いをともわないといけないのです。弟子となること、愛の中にとどまることなど・ヨハネ15:7から・・その条件が書かれています。
画像のように鷲のようになり、聖霊の風の中を自由に飛びたいですね。神が神学を越えた所でも働かれることが多いことも・・私の癒しの祈りの中では、理屈抜きの領域も.神ご自身が働かれる超自然を越えた領域が在ること事も信じています。素晴らしい神癒を経験したとしても、保持するためには、隣人愛で表される温かい励ましの言葉や色々の手当も必要だと思います。
大阪の神学大学で組織神学を神戸の国際キリスト教会の岩村義雄牧師先生から、組織神学の基礎を学びました。一口に組織神学と言っても、その神学を組み立てた著者の信仰背景も影響します。ルターは体系的は神学を書きませんでした。当時のカトリックの司祭神父しか見られなかったラテン語の聖書が、印刷技術の発見発展で聖書が、私たちの身近になりました。それまで聖書は、日常生活とかけ離れた存在でした。
当時のカトリックの犯した過ちの免罪符ではなく、信仰によって義とされることをルター聖書を通して知りました。 神学にはカール・バルトとか、カルバンの神学もあります。他にもヘンリー・シーセンの神学もあります。けれど、それぞれの立場から聖書を見て調べています。
それが教義神学です。教理を組織的にまとめた特定のクリスチャン.グループの教理の研究です。例えば、カルバン主義の神学やディスペンセイション主義の神学などです。 特に教理神学には、その教理を主張するグループの主観も入ります。パウル・ティリッヒ。チャールズ・ホッジ。 ルイス・ベルコフと言う神学者が有名かな?それそれの立場からの神学です。
それに比べると組織神学は忠実に、聖書を調べて、私たち人間の主観や思い込みを排除して組織的に聖書を理解し、他の人にも教えるのを助ける重要な道具の一つなのです。systematic theologyとも英語では言います。
聖書は聖霊に満たされた旧約聖書の人々。キリストの言動。パウロに代表される各地のクリスチャン達に当てた手紙から構成されています。当時のクリスチャンもユダヤ人であっても、 ヘブル語、アラム語以外にギリシャ語を話していました。
一度は、神学校を卒業はしていますが、私がもっと聖書を知ろう。学ぼうと、今の神学大学に入学を希望する動機の一つになった言葉が聖書に書かれています。使徒17;11『非常に熱心に御言葉を聞き、果たしてその通りかどうかを聖書を調べた。』?ペテロ1:10『その救いについては、あなた方に対する恵みについて預言した予言者達も(現代で言えば牧師信徒とも言えませんか?)熱心に尋ね、細かく調べました。』 私は伝道者として国内外で宣教をしてきましたが、一つの教会を育てる、教えるためにはもっと聖書を知ろう。と思ったからです。
講師の岩村先生も、この聖書箇所(上記)を用いて、教理以上に言語に忠実に、聖書を調べる事が大切と力説されました。岩村牧師先生の人生での経歴もユニークだと思いました。キャラクターも溢れて、大変熱心に教えて頂きました。
聖書は.私たちの人生の足元を照らす光です。学長の李牧師先生は、在学中には聖書通読を50回はするようにと勧めておられます。頭に込めと言うことです。 昔。わたした滞在していたアラブ諸国では、イスラムのコーランを空で言えるように、幼い時から叩きもまれます。日本ではないですね。
岩村先生からは、聖書言語から外れた聖書解釈の危険性も教えて頂きました。例に癒しというギリシャ語を用いられました。ギリシャ語の癒しには2つの意味があると言われました。治療と手当。奥様の癌からの回復の経験を語られました。もう一つは神癒です。 主イエスはこの二つを用いておられました。と教えて下さいました。これらも、感情や思い込みを排除して、聖書になんと書いてあるかを調べる事がいかに大切かを語られました。講義を受けながらギリシャ語やヘブル語を知りたいと思うようになりました。
聖書をもっと詳しく知り、御言葉を心に蓄えて、キリストの葡萄木につながり豊かな実を結びたいですね。そういえば・・聖書には、『私の名前で祈るならば何でも答えられる。』ヨハネ15:14間違った解釈があります。しかし、これには条件があります。主の言葉・・聖書の言葉教え、神の願われる律法<十戒など>を含めて心に留まり信じ、行いをともわないといけないのです。弟子となること、愛の中にとどまることなど・ヨハネ15:7から・・その条件が書かれています。
画像のように鷲のようになり、聖霊の風の中を自由に飛びたいですね。神が神学を越えた所でも働かれることが多いことも・・私の癒しの祈りの中では、理屈抜きの領域も.神ご自身が働かれる超自然を越えた領域が在ること事も信じています。素晴らしい神癒を経験したとしても、保持するためには、隣人愛で表される温かい励ましの言葉や色々の手当も必要だと思います。
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