google-site-verification: google8bec6e3f3bda2812.html

心の風景、愛の聖書、福音と癒やしと日常から。ミカエル小栗

ミカエル小栗がつづる心の風景。聖書の福音は愛と救いと癒やし。日常の出来事の心の雑記帳風景ブログです。聖書に基づくカウセリング、祝福と救いと心の癒やしを祈ります。あなたの教会のメッセージ奉仕もします。ご依頼はメールにて!

2021年03月

このブログはYOUTUBEにアップロードしました
動画を文字でも読めるようにと思い文字起こしををしました。以下がその通りです。

私は、小栗龍男と申します。ブログやYOUTUBEでは、ミカエル小栗。チャーチ・オブ・エルシャダイと名乗っております。

今。私がまとっている物はマントです。若い頃に駐在していたアルジェリアで購入。これよりもっと実用的な物を羊飼いが着ております。

私は民族衣装が好きで、駐在してきた国々の民族衣装を記念に買っておりました。
でも1番好きなのは日本の着物です。
     
お気付きでしょうが、神戸六甲山牧場からお話をさせて頂いております。
何故かと申しますと、詩篇23編と私たちと云うテーマでお話をしたいと思います。


多くの方々が、好きだ言われる詩篇23編です。
そして、私がこの詩篇に、自分を重ねた証しからですが、後半には後編はヘブル語の詩篇23の単語から思い浮かべる事柄をお話しさせて頂きます。
私はこの詩篇を身近に思えたのは、私自身が癌の疑い、宣告されたときです。神学校を卒業後、長期の断食を行って祈り求めた結果。神戸で開拓を始めます。

自活伝道ですので、私の仕事も住まいも見つかり、サーこれからと夢を持って開拓伝道を始めた矢先でした。仕事中に、私は激しい腹痛に襲われて、身動きできなくなります。

仕事を中断して、救急車で入院、検査をすると、先ず胆石があり、MRIでは胆管が膨れ上がり腹水溜まりかけておりました。医師に、「私には身近な家族が居ませんので、もし癌などがあるならば覚悟しないといけないのでありのまま告げて下さい。お願いします。」と伝えると医師は深刻な表情で、「癌の疑いは否めません!」と答えです。

そして、「今あなたは体力が落ちているので、直ぐには、手術は出来ません。ガンマーカーの検査結果は高い。暫く様子を見ましょう。」との返事を聞きます。
直面した現実に、祈る元気も失いました。私の妻も癌で亡くしているので、医師からの言葉は重く、私は死を告げられた気持ちになりました。そして、私は先が見えない不安な心に変わって仕舞いました。

聖書では、「明日のことを思い患うな。」と言う言葉がありますが、突きつけられた死という現実に恐れに覆われて祈る気力を失います。
神様が母親のアルツハイマー記憶喪失から癒やされていたことも忘れてしまうほどでした。
折角、ある方の支援で神学校を卒業し今から夢を持って開拓と矢先に、なんてことだ!と

「これが御心ならば、受け容れるしか有りませんが、デモ神様!あなたの栄光を現す私になりたい。』ですと・・あの方が、折角神学校に行かせて下さったのに・・と小さな思い、つぶやきとも言えます。

言葉というか祈りを忘れてしまうほど私は落ち込みました。失望感に覆われておりました。

呆然と数日を過ごすと、次の聖書の言葉を浮かびます。

「ふたり、三人が心を合わせて祈るとき聖霊が臨在して下さる。」という約束の言葉でした。

それは、マタイ18章20節に書かれてある言葉ですね。それで、思いつく限りの牧師、教会、友人クリスチャン達に事情を説明、多くの方々が祈って頂きました。

すると気持ちが落ち着く始めてふとある風景が心に浮かびます。

私の目の前には荒れ地の砂漠の谷間です。でもよく見ると、その先には緑の牧場が微かに見える風景でした。これは何だろうか?と思案し始めると、不思議に詩篇23編の言葉が重なりました。

そうだ!今は癌かも知れないけれど、母の時のように、神様の栄光を第一に求めその結果がどの様であれ、神様に従おうと決心が出来きました。

それも、神の御心の許しの中での病気であるなら、差し迫った不平不満、不安を捨てられるように願い祈りました。

告白できたのは、「私は今。死の谷間に居ますが、この先を通り過ぎたら、必ず緑の牧場、神様の居ることをに行きます。」と言う決意を告白しました。

逆説にこれは、ヨブ記の1章5節からでした。ヨブは息子達に対して余分な不安を捨てないで保っていたからです。余計は心配は避けよう!サタンが心の隙間に入り悪さをするという警戒心からです。

私からの祈りの要請を聞いた人たちが、次第に見舞いに来て下さるようになりました。
自活のために働き始めたばかりで現実的な心配がありました。それは入院費、手術の費用です。
手術の結果承諾とにも支払いにも保証人が要ります。現金が無くて困り果てました。

その間、医師に呼ばれ繰り返される検査が続きました。検査を終えて、ベッドに横たわろうとしたら、枕の下に封筒がありました。その中には現金が同封されております。

30万を超える金額が同封されて、相部屋の方に伺うと、「私も検査に呼ばれていたので、どなたが来られたのかは分かりませんね」という返事でした。
現在に到っても、その献金が誰からだったのか・分かりません。

手術後、麻酔が次第に切れていく夜に誰かが私の手を握り励まして下さいました。
それは無言ですが温かい手でした。

麻酔が覚めてから、看護師に、「誰か私の手を握り励まして下さった方を見かけませんでしたか?」と伺うと見かけませんね。「では、看護師さんですか?」『私たち看護師は、そのような個人的な対応はしませんから〜。』

では誰が・・? いまだに謎です。

麻酔が覚めながら意識がもうろうとしていましたが、あの手に触れられた、あの手の温かさ、今も感覚は忘れられません。

その後、あれほど腹水が有ったのですが、癌は消えていました。
微妙ですが、ガンマーカーの反応は残っていたそうです。胆石除去の場合は10日ほどで多くは退院するらしいのですが、医師からは暫く様子を見ましょうと言われ、汽月ほど入院延長になりました。 徐々にですが、あの癌反応 血液検査からも消えて行きました。
気を緩めずに、再発しないように5年間は祈り続けました。

さかのぼって、献身神学校に行けるようになったのは、あるクリスチャンが、学費のすべてをお一人で支援した下さいました。
その前にも、既にお話ししましたが、母のアルツハイマーからの回復、癒やしを神様が与えて下さって下さいました。

90年代の出来事です。

私は海外駐在から帰国して地元で小さなレストランを開業しました。
少年時代からの夢を実現したのですね。

順調に滑る出しました矢先に、母の発病でした。店の経営と管理、母の看病で疲れ始めて時に、兄弟からは、「このままではおまえが潰れる。母さんは病院にまかせろ!?」と言われますが、母の救いが、告白が未だでした。
母の様子を見たり、医師からの言葉で絶望的な母でした。
それでも、私の声に反応する日も稀に有りましたのです。

声の反応と言っても、誰が話しかけているかは分からず、「ご飯食べよう!」というと口を開ける仕草をしました。でも飲み込む事はしません。吐き出します。

栄養補給の管や点滴を打たれるようになり益々、ひどい状態になりました。
医師の治療は絶望的でしたが、人格が消えたようでも、霊は生きているから救いを求めるように祈りました。母自身の口で、神の栄光を讃えられるようになるように祈り求めました。

癒やしよりは、先に、、第一に神の栄光の表れ、救いを求めました。

その間に、わたしは店と病院の往復で疲れて倒れてしまいました。
折角の夢だったレストランを閉鎖することになりました。

当時。私が所属していた教会では、癒やしのことは余り語られず、何故?聖書に書いて有るのに、不思議なギャップがありました。
それで母の回復を求めて、キリスト書店にある信仰書から始めて模索し、癒やしのセミナーにも参加しました。
そこで観た癒やしの様子から、牧師には頼らず自分で祈って見ようと

聖書。マタイ17:21に書いて有るように断食をしました。

「ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。」と書かれて有ったからです。

これで癒やされないなら、諦めるしか無いけれど「癒やしは別にしても母を救って下さい。」と神様に嘆願しました。また「母が救われたら献身します。」とも神に伝えました。

それから三日後、病院に行くと、正座した母が「おまえ、わしを一人にして何処へ行っていた?」と言うので、唖然としました。

「母さん、僕が分かるの!?」「馬鹿言うじゃ無いよ!」看護師がきて「良かったね。努力が認められたのよ」と云われ、母が回復したと思いました。医師が病室に来られて奇跡的回復だよな〜とも語って下さいました。

驚きながら、感謝しながら、献身すると言ったけど、振り返って本当に自分がふさわしいのか?と
新たに思い悩み始めました。
それから一年後、ヘンリ・グルーパ師が富山にも初来日ないました。

その時に、「神があなたのビジョンを祝福します。」と語られ、何故?私の祈りを知っているのだろうか?驚きならも涙に溢れました。
その場を観ておられた先ほどのクリスチャンからも支援が有り、神学校に行くことが出来ました。
ヘンリー先生が語られた3日後のことです。

今まで述べたことから、私が詩篇23編が、私自身の歌になり、讃美に変わりました。
死を覚悟したり、希望が無い、人生計画失望があったも、先が見えない、しかし主の杖が導く方向を指し示す。新しい水飲み場を与える神様です。

詩篇の通りです。

01539613785719b0b4fdb969df89164fe3739a9dd7

さて、詩篇23と私たちの関係をヘブル語から見てみましょう。

1節は、主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。で始まります。

ヘブル語ではアドナイ・ヤハウェハ=神、羊飼い。と始まるの二つの単語です。

ヤハウェハは、在るて在る者。存在を示す言葉で神にしか使えない言葉です。

その神がアドナイ・イルエ、満たす神である。と始まります。

また羊飼いと書いて有り、羊をも守る存在です。

ダビデ自身も羊飼いは身近な存在です。少年期から父親の羊を見守ってきました。


2節 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

2節は8つのヘブル語単語から成り立っています。

{牧草地の中に}女性名詞と前置詞。青草。圓燭錣擦襦の辺に。水辺。諸々の水。安らぎの。完全に導きました、これは{強調された意味。}から成り立ちます。

羊は神経質です。自分は安心できないと固まって身動きしません。
水飲み場が無いと死んでしまいます。その水も羊が安心しないと飲みません。

羊飼いは羊たちが安心できる牧草と水を与えます。神様も私たちを同様に扱います。

私たちは神様を拒否しない限り、迷わない限り 安全な状態に暮らせるように導きます。

神が選んだ場所に導かれます。私たちにとって、その場所が最適だと判断なさいます。

3 節 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

ヘブル語では8つの単語から成り立ちます。

私の魂を、導かせます、私を、諸々の道に、義の、〜の故に。彼の名からで成り立ち、

御名のために私を義の道にとは?

私たちの羊のためでもありますが、彼の義とは、神様ご自身の正義ですね。
私が先ほど証しさせて頂いたように、絶望的な母の癒やしや 献身者とふさわしくないのでは?と
言う疑う、先行きの不安以上に。

神の計画が優先されるのは神の義、御心を優先されるときがあります。

聖書イザヤ書41章10節にも書かれてあります。

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」と書かれてありますね。

神様が守ると太鼓判だと書いて有ります。

また。エゼキエル36章22節から26節にも私、神が行うのは、ご自身の名誉のためだとも書いて有り、
清めること。新しい心を与えるとも書いて有り、神様ご自身が保証しておられます。

なので、先行きを私がを恐れていたら。今日の私はありませんでしたね。


4節、 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

ヘブル語では、主要な単語は14個で構成されています。

(私は)歩む、 谷において、死の陰の、〜ことはありません、(私は)恐れる、悪い(ことを)なぜなら、あなたが、私と共に(いる) あなたの鞭が、そしてあなたの杖、{そしてあなたの杖と訳されましたが、爵との意味もあります。王様しか持てないのです。}
それらが、慰める、私を、その他の接続詞もありますけれど。

御言葉から、死の陰とは?羊には絶体絶命な状況下ですね。

オーストラリア森林火災を覚えておられるでしょうね。コアラや沢山の動物と人々が犠牲になりましたね。
牧草地が火事になれば、羊たちは彷徨います。羊は死を覚悟しないといけません。
燃えさかる火の輪、その中に神が立って下さり羊たち、私たちを守る事を意味しております。
差し迫る炎をと云う災い、現実の中に神が来て下さるのです。

ダビデも多くの予期せぬ災いを経験しましたね。その時、神様はダビデに行くべき道 知恵を示されましたね。

日本人の考える鞭や杖は叩く道具ですが、私が観た羊飼いは決して叩きません。

私がアルジェリアで、道を歩いているとき、向こうから羊の群れがきました。

すると羊は立ち止まりました。羊の後ろから声をかけられました。
「ムッシュ、道を空けてくれないか!?」と・・
私が道を空けてよけると、羊飼いが持っていた杖で羊にその杖を差し伸べると羊たちは動き始めました。
棒ともとも訳された中には王様しか持てない爵という権威の象徴の道具の意味も隠されております。

神は神様が使用なさる方法で導かれる安心感をダビデは詩篇の中に読んでいます。

23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
ヘブル語では、主要単語が10個で構成されています。前置詞と接続詞もありますが数えませんでした。

(あなたは)整えます。私の面前に、食卓を、〜の前に、私に敵対する(者たち)。
あなたは(完全なる)油を注ぎます。油によって、私の頭に、私の杯は、満たす(充満する。)

敵の前で宴会を催される神様を表現した歌ですね。宴会をもよす環境と、時が必要ですが、
神様がその環境をあらかじめ用意されるとダビデは語りかけています。

宴会を催すにはその宴会係が働きます。招かれた客は黙って座るだけです。
神が開催された宴会に、私たちはただ主席をするだけです。

神の招きを断らずに、主席すると頭に油を注いで最高のもてなしを受けます。

昔は香油ですね。それも高価な香油、あなたもナルドの香油の話を思い出して頂けませんか?

日本人は小さな杯を思い浮かべやすいですが、外国の杯はワインカップ、
しかも大きなカップを意味する言葉です。

溢れるほど注がれる神様からの歓迎の祝福を受けるのですね。

6節を観てみましょう。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

ヘブル語では約15の主要単語で構成されています。
確かに、善が、そして慈悲が、追いかけます、私を。日々の、そして慈悲が、ことごとく。
私の生涯の、そして(私は)住みます。

家の中に。主、ヤㇵウェㇵ=在る者=の、長い期間に及んで、日々。

ここではダビデの主なる神への献身と決意が表明されている言葉で締められております。

ダビデ自身も、父親兄弟から彼を忘れられた存在でした。
サウル王からも殺されそうになり、最初の嫁からも馬鹿にされました。それも彼は神に信頼しておりました。
そんな中でも、ダビデは大きな過ちを犯して仕舞いますね。神様は予言者ナタン通してから、ダビデを責められます。
彼は大きく悔い改めます。
またダビデは税を徴収するために人口調査のような改革策をした。ダビデは、いつの間にか王国を主なる神のものではなく、自分のものとした過ちを犯しました。

それらから彼が建てようとした神殿は受け容れられず、息子ソロモンが神殿を建立するようになりました。
それでも彼ダビデは何時でも悔い改めて、神から離れない決心を繰り返して告白しております。

ダビデの告白、悔い改めの言葉が残されております。

詩編 51章11節 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
切実な願いは神は聞き入れます。神はその儀によって、ご自身の言葉の守って下さいます。

さぁ〜 私たちも献身、神から離れないで神、主の家を住まいとしませんか?

最後にこの聖書箇所と詩篇23を読みたいと思います。

詩70章4節と5節。 あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。
あなたの救いを愛する人たちが、「神をあがめよう」と、いつも言いますように。
私は、悩む者、貧しい者です。神よ。私のところに急いでください。

あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。

主の助けは、私たちの思いを越えて何時もグッドタイミングですね。

0157afbcbd768621ebb257041f1dc18ed407b50889

詩23編を読みます。

主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。

主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。

主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。

あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

私の敵の前で、あなたは私のために
食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。

まことに、私のいのちの日の限り、
いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。


長きにわたってご覧下さり、
まことに感謝申しあげます。

あなた様には叩▲リストからの
豊かな祝福が注がれるようにとお祈り申しあげます。

ヨハネと使途達の戦い、天の女王その真偽と誘惑。葬儀の向き合い方の参考に。

ヨハネの福音書朗読を、最後までご覧下さり、真に感謝申しあげます。

キリストに愛されて弟子。ヨハネは、殉教をしなかったただ1人の使徒です。

そのヨハネは、ローマの迫害のさなかで、、煮え立った油に投げ込まれて殉教するところでした。


しかしながら、奇蹟的が起きて命が助かります。 
9

思い起こせば、ダニエル書にも王が作った金の像を礼拝しない3人を燃える炉の中に投げ込まれますが、生きる事が出来き、ネブカデネザル王がその奇跡を観て許した事が旧約聖書ダニエル書3章には詳しく記録されているように、ヨハネにも同様の奇跡が起きました。

その後、ヨハネは監獄の島、パトモス島に島流しになります。

彼は老後を生き、ローマ皇帝トラヤヌスの治世の中、西暦98年以降、エフェソスで亡くなったと言われておいます。
Patmos01

その他の使途は悲しいことに、すべて殉教しました。

殉教した理由は、キリストを真の神と認めたくない人々いて、反感を買っただけでは無く命を狙われ殺されたからです。

キリストをまことの神と認めたくない理由には、彼らは信じていた女神の存在が在ります。

ローマ皇帝のネロは一番ひどいくクリスチャンを迫害にしましたね。
元々ローマのと云う名前は女神の興した町という処から付けられ、皇帝が神官の役目を担います。

皇帝は神官としての名誉と権力を手にして、神殿に奉納する物から、この世の利益を得ていたからです。
これに対して、ヨハネや使徒達はキリストが真の神であると布教し、

現世の利益よりは永遠の命を力説した結果。
キリストを信じる人々が増えてきた理由もあり、それによりキリスト以外を信じる人々が、彼らの信じるからこそ得ていた名誉、名声、既得権益を失ってきた事が想像できます。


それでも使徒達や当時のクリスチャン達は、キリストの復活を見聞きしており、永遠の命の価値を知り、強い天国、永遠の命への希望を確実し福音を語り続けて、たとえ迫害があっても棄教しなかったのです。

キリストの復活を観たり聞いりした人々には、強い確信と信仰から生み出された強い覚悟がありました。
ピリピ 1章21節には 聖書には次の言葉も記録されております。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」信仰への凄まじい決意表明。その要求とも取れるピリピの言葉ですね。
私たちが生きている現代日本では、コロシアムでの見世物。ライオン食べられるようなこと無いと思います。しかし中国などの国々では、今も信仰の迫害が行われおります。
私たちにも、この世の終わりが近づく時、覚悟ある信仰を突き付けられている気がします。

それでもヨハネはキリストから一番。愛された弟子との自覚があり

キリストが唯一の復活した神でありその生き証人としての自覚から間違った考えに対抗し、キリストを信じて生きるための重要性とその要点を書き記しました。

ヨハネには、使徒達が殉教し亡くなったニュースも伝えられていたことは想像できます。

ヨハネは使徒達を死に追いやった、天の女王の戦いの勝利を黙示録にも書いております。
(バビロンに君臨した女王として描かれ神の裁きを受けます。黙示録18:7〜21を参考にご覧下さい。)
この女神、歴史は古代メソポタミアからありました。

旧約聖書にも記録されている女神であり、天の女王として記されております。真の父なる神に逆らう存在ありです。

ヨハネが晩年住んだと言われるエペソともエフェソス言われた町、ここにはアルテミス女神の神殿があり、パウロもこの町で、宣教し福音を語りこの神殿に仕えた人々と民衆に信仰の戦いをしました。
shutterstock_530678443-e1530531391758

アルテミス女神は、世界の女神、天の女王と呼ばれておりました。

その様子は使徒行伝19章に詳しく記録されており、神殿に仕えていた人々と奉納する物を作っていた職人達が争う経過が書かれております。彼らの既得権益を失うからでした。

さて、アルテミス女神は豊穣の女神と知られ、沢山の乳房を持つ女神です。
この世の富と名誉を与え司る神として知られております。

この天の女王は、キリストの教えとは敵対しつつ、世界中に、今も形を変えて存在しております。

メソポタミア北部からシリア、パレスチナにかけて信仰されていた天候神アダドには勝利の女神アナトの兄にして夫。頭は人間だが下半身は動物の像もあります。神話に登場する神々は家族を持っている事が多いです。そんな神の家族間でも殺戮の争いがあるのも不思議です。

旧約聖書に登場する。カナンの土着信仰とは男神バール信仰、女神アシェラ信仰でした。

女神アシェラは勝利の女神アナトりなり、ギリシャの神アテナに変化したとも言われます。知恵、芸術、工芸、戦略を司るギリシア神話で女神、アテーナーとも呼ばれます。

ローマで信仰されていた女神はミネルウァと云います。詩、ポエム{歌とも云い。}・医学・知恵・商業・製織・工芸・魔術を司るローマ神話の女神。皇帝ネロがローマに火を付けて、歌(詩)を呼んだ話を聞いたことがありませんか?この歌は女神に捧げられた。ローマという名前の起こりは勝利の女神からとも云われております。

古代エジプトにもイシス女神があり農耕の神、豊穣神。偉大なる女魔法使い、献身的な母や妻として王座を守るものと云われておりました。子供を抱く女神として、子供を抱くマリアとして後世には変化したとも言われます。
メソポタミア、イラク。アブラハムが生まれた処です。
そこには月の女神の神殿があり、ウルは月の女神礼拝の本拠地で大きな神殿遺跡が残っております。

余談ですが、イラク駐在中に、私は幾つもの遺跡を観ることが出来ました。それらの遺跡には全能なる神からを預言受けた通りで荒廃しておます。

記憶がある方もおられるでしょう、フセイン大統領がイラクを治めておりました。私が見学したときに無かった、バビロン遺跡を立て直し彼の離宮を建てました。

彼はネブカデネザル王のように再びなりたいと願っていましたが、その後、予言通りに
失脚して殺され、彼が立てたバビロンの離宮も再び荒廃しました。

エレミア51章37節に書いて有るように。 「バビロンは石くれの山となり、ジャッカルの住みかとなり、恐怖、あざけりとなる。」この言葉が再び実行されました。

アブラハムがカナンに入る前に、父親との決別を神はアブラハムに言い渡します。父親テラは故郷カルデアのウルに居住していた時にあった月の女神の影響を色濃く受けていたのかも知れません。それで神はテラをアブラハムかた引き離したのでしょう。

またヤコブの二人の妻、ヤコブはその容姿から妹ラケルを愛しますが、姉のラケルを神は祝しました。ヤコブを通して、本当の神を知ったと思います。

けれど、ラケルはヤコブ聞いたはずのまことの神よりは偶像の神を愛していました。その結果。あまり子供に恵まれませんでした。
その原因は、ラケルは父の守り神テラフィム(小さな偶像=家族の守り神)を盗んだとあり(創世記31章19節)、しかも、ヤコブがカナンに帰るときに、蔵の下に隠し持っていた(創世記31章34節から35節)と書かれてあり、それを父がそれを探しているのを知っておりながら欺こうとしました。ここにもまことの神を知る事、神に信頼して献身する重要性を記され、祝福にも違いが出たことが記されております。

テラフィムは士師記 第一サムエル記 第二列王22章24節他にも記されております。テラフィムはヤコブの妻ラケルからカナンに持ち込まれたのだろうか?それ以前にから土着信仰として有ったのでしょう?

けれどテラフィムは聖書ではあまり良い意味で使われない。創造主,父なる神も嫌っていたことが分かります。

さて、インドにもカーリー女神があり、ヒンズー教で多くの手を持つシヴァ女神があります。
日本にもその形の影響を受けた観音信仰と色々の顔と手を持つ偶像が造られました。
カナンの女神アシェラが漢字にも変化して阿修羅像として日本に渡って来た気がします。

日本にも狐など動物の神やゾロアスター教、拝火教から火の神があり、天候の神。女神信仰が存続しております。前記の観音も女神ですし。太陽神礼拝があり、それは天照大神となります。その祭司が天皇家だと云われております。

豊穣と戦争に勝つ、家族が健康であること。作物が豊かに実ることは、古代からの人々には死活問題でした。

まことの創造主である神を求める前に、人間側の想像力で神を、創造主に取って代わる物、偶像を作り出しました。

何故だろうか!? サタンはエバに語りかけて『あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり・・。』創世記3章5節には、創造の父なる神に取って代わるとそそのかしました。

父なる神は御子を通して、エデン地球をアダムに管理することを望まれましたが、エバを信頼していたアダムをそそのかし、サタンはアダムにもその実を食べさせてしまいます。サタンは結果的に地上の支配権をエバとアダムを欺して奪い取りました。
サタンは常に地上の欲を満たす、名誉を与えると偽ります。目に見える偶像を拝ませて云います。
偶像の背後にはサタン悪霊がおります。

繰り返しますと、天地創造の父なる神は偶像の神々を嫌います。
出エジプト 20章3節から5節には、偶像に対する神の言葉が書かれてあります。

中でも出エジプト20章4節には次の言葉が書かれてあります。 『あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。』私が初めて行った教会の宣教師は
私は十字架の絵を描いたときに、きつく注意して下さいました。そして語った言葉が、
『あなたはこの絵を通しても祈ってはいけないし、あなたが書いた十字架を観た人がこの絵を通して祈らないように。』と云われました。その教会には十字架の飾りも無い教会でした。

私は14歳の幼な心にシッカリ刻みつけました。
それ以来、これくらいはいいだろう・・と曖昧にしないで偶像を避けるようになりました。

とは言うものの、日本人は葬儀の殆どが仏式ですね。
20歳を過ぎると、仕事先の葬儀に呼ばれる機会が増えました。
お悔やみのしるし、香典は届けました。仏壇の前に呼ばれたときは困りました。
けれど、座っても焼香はしないで、故人には祈らない礼を尽くす意味で軽く頭をさげて終わっていしました。
これは、何故かというと列王供5章18節からです。詳しくは後ほどに。

親族の場合は、クリスチャンだから出来ないとは最初から、言い訳の頭から云わないようにしました!クリスチャンだからを理由に断れません。
避ける意味で、「愛した人が浮気をしたら、いやでしょう!?。私は神様を愛しているので神様だけを拝みたいし、神様が浮気をしている僕を観たら悲しむから勘弁してください。」と理解を求めました。

それでも祭壇の前に呼ばれることがありました。祭壇前に行くと拝みはしないけれど、私が長く涙をながしている観て、「おまえはクリスチャンだからな〜と焼香しなくてもいいよ。」と時間をかけて理解を示してしてくれました。

父親の時は海外駐在中で葬儀には出られませんでした。悲しくて砂漠の中で一人泣き、神に叫びました。
4ccd69ad
母親が洗礼を受けても兄は仏式ですると言い張りました。『これは俺{兄}のやり方で、母さんを送りたい!、これが終わったら、おまえのやり方で母さんを送ればいい。」と云いました。それ以上は言い張らず、母の遺骨を抱いて、アルツハイマー認知症から回復後、洗礼を授けて下さいました。新城教会、滝元明牧師先生のところに行き、遺骨に手を置いて下さり、母のために祝福の祈りをして頂きました。

何故?瀧元先生に!?私は富山県で、母の救いを祈りながら4年間。看病しました。
神様が癒やして下さり歩けるようにもなった途端。兄が居た愛知県に連れて行ったからです。
母からも「兄の顔を立てるように。」と涙ながらに頼まれましたかたです。毎月。母のところに通い新城教会に連れて行っておりました。
IMG_6096

滝元明先生、順先生には優しく柔軟に対応して下さいました。 ある日、母と一緒にセミナーを受けているとき、時間が長いので90歳を過ぎていた母親のことも心配して『お母さんが大変だから、早く帰りなさい。後ほど、セミナーのテープを送るから、」語って下さいました。
IMG_6095

さて、聖書には異邦人であったナアマン将軍が、思い皮膚病を癒やされた後で、イスラエルの創造主である神を信じます。しかし彼が仕えるアラム王は異教の宗教の神を信じており、ナアマン将軍は困りました。そこで、エリシャに相談、伺います。

 職務としてナアマン将軍は、「アラム王が礼拝するとき。王の身体を支えるために、彼は身をががめなくてはいけない。」と相談しました、心から礼拝しないことから、預言者エリシャは、彼ナアマン将軍に「安心して行きなさい。」と伝えました。粁鷁5章18節

神様がエリシャを通じてナアマン将軍に認可、許容された気がします。これは一つの神からの知恵だと思います。詳しくは、旧約聖書粁鷁5章17節〜19節をご覧下さい。
 
日頃。私たちが抱える周囲の偶像、葬儀の対応ですが、神様は色々なケースに対して。真剣に求める時に、個人対応で知恵や知識を聖霊を通して与えられます。キーワードは何時も愛と希望と信仰、そして神を待つ忍耐だと思います。

この言葉も再確認したいと思います。
私たちは神の言葉と栄光、そして福音と語り続けたいと思います。

 信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。汽謄皀 6:12
163636482_3771246166278608_1648885439066709585_o

皆様と一緒に神様から喜ばれる者へと成長したいですね。
最後までご覧下さり有難うございます。あなたご自身の信仰の戦いに、祝福がありますようにお祈り申しあげます。

乞願と誓願の祈りと断食は、
神様が喜んでくださるために有効で良いと思います。
誓願は叶ったときにこれこれをします、捧げます。と言う約束を神様と取り交わします。
断食は病気を祈るとき必要かと思います。

聖書にも書いてあるように。“ただし、この種 のものは、 祈りと断食によらなければ 出て行きませ ん”(マタイの福音17:21) 私が病気の癒しの依頼を受けたときは最小限度でも断食して祈ります。
神様は自分の言葉に責任を持って答えてたり、行ってくださいます。
私の行った断食は最長40日でした。それを聞いた人は、断食なんて必要ないと・・しかし、その人の癒やしの祈りが応えられていない人でした。
エゼキエル36:22 「私が行うのはあながたがたのためではなく、あなた方が行った諸国の民であなた方は汚した私の聖なる名のためである。

            FullSizeRender

神様はご自身のために約束を実現します。私たちが固く信じ、神キリストに期待して悔い改める時です。
悔い改めはキリストの十字架を通して与えられています。すべてキリストを信じる者の恵みとして、神様はご自身を癒す神だと言ってモーゼにご自身を明かされました。
そのお言葉は生きていて、私たちにも信じるなら適用されます。十字架の悔い改めと救いを明確に確信して信じて居る人々への神様から栄光の恵みです。神の栄光を第一に願う人に現れる恵みです。

私たちの祈り神に神様はご自身の約束。ご自身の言葉を実行してくださると思います。祈ったら必ず答えられると癒されると期待して信じ続けることが必要じゃないでしょうか?
神様にとって難病は無いはず。と私は思います。神様、ご自身がイエス神だと宣言なさった言葉の責任を持ってくださいます。

その答えがいつ来るかは分かりませんけど、期待して待つ間に、私たちがなすべき事、必要なこと、信仰を育てることなどを教えてくださると思います。
私は母の救いとアルツハイマー記憶喪失のために、癒やしより先に、神の栄光と救いを求めました。結果が分かり癒やされるまで4年、それから母は自分の足で歩けるようにもなり8ヶ月掛かりました。その後、洗礼を受け、私は教えていなかったのに、聖霊の満たしと異言も受けました。

神に期待することは重要です。私が14才でアーメンの意味も知らないのに、この神様、キリストに期待して治ったらいいなと思いながら
アーメンと言っただけなのに扁桃腺の手術後の高熱がでない癒やしを受けました。それは切っ掛けで教会に行き救われました。

信仰が強いか?弱いかを強調なさる人もおられますが、神は答える時期を見計らいます。
わざと遅れて返事なさった、癒やしに出掛けられた、そしてキリストが答えた例も聖書の中には書かれております。ラザロが死にかけているとの使いが来たときに神の栄光が現れるために遅れて行かれました。マリアの訴えに対して涙を流されたイエス様です。

あなたが観て自分より信仰が無いとか、弱いとかを責めないで下さい。むしろ
神への信頼と期待が高まるようにと、あなたがその友人、隣人のために涙を持ってとりなして祈ってあげて下さいませんか!? 神が定められたときまで・・その時には答えられたり、癒やされる神様です。ご自身の言葉の責任を取って下さるイエス様ですから・・。

SNSで、「祈ってください、」「はい。祈ります。」は単なる挨拶ではなく、私たちの信仰も試されると思います。はい祈りますと受け取った場合は、祈りますといった人は最後まで責任持って、癒しの結果が分かるまで祈る必要が、私たちにはあると思います。

神に期待する人に対して報いを与えられます。私たちの決して人間的な尺度ではありません。人間的な尺度で癒やしを否定しないで下さい。

神が子供を与えると言われたのに、アブラハムにイシュマエル!
それは否定なさった神、そしてイサクが生まれるまで25年掛かりました。生まれて安心!?そのイサクを犠牲として捧げろと言われた神です。 死からも蘇ると信じたアブラハム?それに報いを与えられた神の計画と私たちの態度を見極められます。けれど彼の行動、行いより先に認められたのは、アブラハムが何か素晴らしいことをしたからでもありませんね。単純に、神が語られた言葉を信じたからでした。

創世記15:5 〜6 『そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』と聖書に書いて有ります。 先にアブラハムは子供が居ないことを神に訴えた現実があります。
けれど、その現実より未来の神の言葉の約束を単純に行いで無く信じたので、神はアブラハムを義とされました。

神の栄光を求める人に、神の考え方で必ず答えられます。私たちには死に到るまでの忠実さを求めておられる神様 父なる神です。今はその忠実さに欠けていると自覚しても大丈夫です。聖霊が導き示して下さいます。詩篇23の思い出して下さい。『あなたの鞭と杖が慰めです。』と告白する者に聖霊様が導き案内し歩むべき道、方向を示してくださいます。

私がよく癒しがあると主張すると反対者がいます。その反対者の多くの意見は信仰がないことを責められそうと、、。だから癒されないと勘違いしてしまう人が多い気がします。私たちの最大の癒しは永遠の命です。この世にいる限り病はついてまわります。何故でしょうか?それは老化があるからです。人の齢は120歳までと神様が決めておられます。
それまで長生きして神の栄光を少しでも表したいと思う人に健康を与えられる気がします。

神様の栄光を、神様の考え方を優先する様に第一に願わないで、自分の都合で様々な願いをする人に、神様はどんな気持ちだろうかとふと考えてしまう。
それでも神様はご自身の栄光のために、私たちの気づきを与えてくださる気がします。それら気づきが私にとっては癒しであり信仰の進め方や主イエス、父なる神、聖霊の捉え方、見つめ方した。神は必ず、私たちにどんなことがあっても省みて癒されて、ご自身の言葉の責任をご自身で取られ果たされて、その栄光を表されると私は信じております。


           4694E4FE-FFB0-40D7-896E-8582BAACD000

こんにちは、私のブログや動画に目を止めてくださったことを心から感謝申し上げます。

さて今回のブログは動画とリンクさせて頂きました。動画での文脈と説明を読み上げましたが、文字でもわかりやすくしたいとこのブログに少し書きました。それはヨハネの福音書、概要とその区分、 文脈とその中も有る主題についてです。
私のYUOYUBEでは読み上げている、(字幕付き。)ですが。このブログには、区分と文脈と見出しを書き出しております。 あなたの聖書朗読で、ボーションで、ご参考になればと願っております。

描かれた物語、小説などにはストーリーの区分、文脈と見出しがあります。聖書にも登場人物と関わったストーリーの文脈があります。文脈のテーマを追っていくと聖書の理解が深まっていきます。見出しのテーマを覚えている時、また、速読する時の聖書理解にもお役にたつと思います。
               


さて、もともと聖書には章とか節の区分はありませんでした。これらの章の区分ができたのは1227年ごろにカンタベリー大司教でスティーブン・ラントン師が作ったと言われています。節の区分は、それから200年後に出来たと言われておりました。

ヨハネの福音書の朗読全巻が終わりましたが、その文脈の概要を短くまとめてみました。あなた様が聖書を読まれるときに何かのお役に立てればと願っております。

私がここで申し上げている区分とは全体の話の流れの区分けです。

大きな区分の中にある分け方を文脈と申し上げています。その文脈の中に細かく分かれた話を主題の見出しとして読み上げております。そのところをご理解、踏まえてチェックしてくだるとヨハネの福音書の流れと主張テーマをご理解しやすくなると思います。

さて、ヨハネの福音書の序文はイエス・キリストが真の言葉であると言う紹介から始まっております。それは、1章の1節-18節に書かれました。
見出し 1章1節から、言葉が人となった。霊であったイエスが神の属性を保ちながらロゴス(人が語る言葉、ギリシャ語由来。)になったと、ヨハネによるイエス・キリストの紹介から始まります。
  
区分けと文脈と各章の見出しの記録は以下です。

聖書はもともとユダヤ人イスラエルに対しての紹介であったために、1章19節から51節には、イスラエルに対するキリストの紹介が書かれてあります。

見出し  その1番目にバプテスマのヨハネについて、1章19節から36節。
 バプテスマのヨハネは、自分はメシアでは無いことを明言して、後から来られるメシアの備えを促す。
見出し。1章29からバプテスマ ヨハネによる神の子羊の明言。 
見出し。1章32から 聖霊によってバプテスマを受ける主イエス。
文脈の2番目と見出し 最初の弟子たちのことが書かれております。1章37節から51節
 神の子羊と言う言葉に惹かれた弟子たちの紹介。それぞれ個性豊かな人物像。

序文の次に本文が始まって行きます。
区分1番目。キリストの公生涯の働きとしての記録、教え、証言、啓示等が記録されました。
大きな区分は、2章の1節から12章の50節までです。
見出し No1   最初のしるし、水をぶどう酒に変える。2章1節から11節。
   イエス様は最初の奇跡をカナの婚礼で行いました。
   少し解説しますと、ユダヤ人の古い習慣から、十戒にも書かれているように、
親への尊厳を持つ、親や親族、特別親しい友人からの頼み事は断れないのです。

   母親であったマリアの頼み事を断らなかった理由の1つとも考えられ、
   それは当たり前のことであって特別なことではなかったと、当時の生活習慣から
   思い描く私ですね。
   これは私が中近東で駐在員 生活し知りえた 民衆の生活習慣、実体験かも
   お話ししております。
イエス様は、女の方と言って母の頼み事を断りました。それは特別なことでは無かった気がします。
その時はまだ神の栄光を表してはいけないと考えられたと思います。なぜならイエス様は絶えず、父なる神の栄光と神の定めた時を考えておられました。

しかし、聖霊からの促しがあったのでしょうか?考え方を変えられたと思いますが、近くにいる弟子たちに神の栄光を示そうと思いを変えられました。

この文脈の最後にイエス様が行った奇跡の目的は最初の弟子たちがイエス様の奇跡を通して神とイエス様を信じるためでした。文脈の最後にはその目的が書かれてあります。

  家族と弟子たちと共にカペナウムに行く。2章12節から文脈が変わります。

文脈 No2  見出し 神殿についてのユダヤ人との対決、2章13節から22節。
   イエス様の神殿の清め。 礼拝に来る人々を相手に商売をする人々を蹴散らす。
   本来の礼拝場所の意味をイエス様は民衆に向かって訴え示す。
  19節 神殿を3日で建て直すと宣言。ユダヤ人から反感を買う。
  エルサレムでの過越の期間中に人々の注目を集めるイエス 。2章23節から25節

文脈No3  見出し 最初の対話、教え〜 新生と新しい命について、3章1節から21節

  ニコデモを教えるイエス・キリスト
  主イエス証をするバプテスマのヨハネ、3章22節から4章3節。

文脈 No4  2度目の対話、教え〜 生ける水について。 4章 46説から54節。
   見出し サマリアの女性と話す主イエス。 命の水についての問答。
  見出し 弟子たちが戻ってきてサマリアの女性と話すことについて不思議に思う。
    サマリア人のリバイバルが井戸のそばにいた女性から始まる。
   ガリラヤでの歓迎 4章43節から45節。

文脈 No5   2番目のしるし、役人の息子の癒し、4章46節から54節。
      5章1節 エルサレムの祭りに参加。

文脈 No6   3番目のしるし、安息日に病人を癒す。5章2節から18節。
  ペテスダの池 安息日に病人を癒したことで、ユダヤ人との口論になる。
  見出し  神子によるの命 5章16節から。

文脈 No7   3度目の対話、 教え〜 神の子の権威について。5章19節から47節

    見出し  31節 主イエス、ご自分について証言。
文脈 No8  4番目のしるし 5000人への給食 わずかなパンと魚で5000人を満たす。
  見出し 6章1節から15節

文脈 No9  見出し  5番目のしるし、イエス様が水の上を歩く6章16節から21節。

文脈 No 10.  見出し 2度目の対話。教え〜 命のパンについて。6章22節から59節

文脈 No 11. 見出し 弟子たちが主イエスから離れる。6章60節から71節
   6章54節に「私の肉を食べ 私の血を飲む。」と言う事を聞いた弟子が、
   その霊的な意味を理解できずイエスのもとから離れる。
 私たちの罪のために十字架で死んでくださったキリストの恩恵に預かることによって
 霊的 命を受け取ります。
キリストの御言葉と親しい関係を保つことによってキリストの命を体験し続ける。
キリストは言われました。「私があなたに話した言葉は霊であり命です。」
また「私が命のパンです。」と言われた。

これが「私の肉を食べ、私の血を飲む。」と言う意味の真意だと思います。
この時。すでにイエスキリストは父なら神の使命とビジョンを理解し、ご自身が死ぬことを自覚しておられました。
 時が来るまでユダヤ行きを避けようた主イエス、7章1節から9節
イエス様は最初は祭りに行くことを避けられた。しかし、途中でエルサレムに登られた。
心境の変化の詳しい事は書かれていない。個人のためにイメージする事は良いかも知れないが、聖書に書かれていないことを詮索し過ぎるのも行き過ぎだと思う。確証の証拠は聖書の中に隠れております。
565CA29C-D99A-4130-AEB1-6C2E0D3697D2

文脈 No 12   見出し 仮庵の祭りでのユダヤ人への教えとのやりとり、7章10節から36節

    見出し 25節 イエスはキリストか?
文脈 No13   見出し 5度目の対話、教え〜 命を与える霊 7章37節から52節
      見出し  ユダヤ人達の不信仰。
文脈 No14   見出し 姦淫で捕らえられた女性への思いやりと解放、そして許し。 
     7章53節から8章11節

文脈 No16  イエスについての本質、神についてのユダヤ人との論争、
    8章31節から59節   
    見出し 31節から アブラハムの子孫
    見出し 42節から 悪魔の子達
    見出し 48節から 主イエスの主張
文脈 No17    見出し 6番目のしるし 生まれつきの盲人の癒し、 
       9勝1節から 生まれつきの盲人を癒す主イエス
       癒しの検証するパリサイびとたち 9章13節から
       霊的な盲人 9章35節から

文脈 No18   7度目の対話 教え〜 良い羊飼いとは 10章1節から21節
    見出し 良い羊飼いとその群れ 10章1節から

文脈 No19  宮の清め、エルサレムの祭りでユダヤ人からの敵意  
       10章22節から42節
      見出し ユダヤ人の不信仰 10章22節から

文脈 No20  7番目のしるし。ラザロの蘇り 11章1節から45節
     見出し ラザロの死と復活 マルタとマリア 

 神の栄光を表すためにわざと遅れていく。イエスの涙。マルタとマリアへの愛。
      そしてラザロの蘇りに話が進む。

区分 第2番目、イスラエルによるキリストの拒絶 11章46節から12章50節

    ラザロの復活を見て信じるユダヤ人。しかし復活の印から逆に信じないで
    イエスを殺そうとする計画の話がユダヤ人祭司長等の中で進む。

文脈 No   見出し パリサイ人によるキリストの殺害の陰謀  
       11章46節から57節
文脈 No  見出し 主イエスに香油を注ぐマリア 12章1節から11節

    *注釈 ナルドの香油はヒマラヤ原産のオミナエシの花の根っこから作られました。
      今は作られていない模様。
文脈 No   見出し エルサレムに勝利の入場する主イエス  
         12章12節から19節

文脈 No 見出し イエス・キリスト。ご自身が自分の死を予告する。 
      12章20節から36節

文脈 No   見出し 主イエスを拒み不信仰を続けるユダヤ人 
        12章37節から50節

hk02
区分第3。 キリスト最後の時〜 新しい契約。民への注目の促し。 
      13章1節から20章29節

文脈A  弟子たちとの最後の晩餐 13章1節から14章31節
見出し 1,  弟子たちの足を洗う主イエス 謙遜と使える心の模範 13章1節から17節
見出し 2,  裏切りと否認の予告、 13章18節から38節
見出し 3、父なる神への従順とその道。 14章1節から14節
見出し 4、聖霊の約束、 14章15節から31節

区分 第4  ゲッセマネへの道で 最後の説教、15章1節から16章33節
 見出し 1、 キリストに頼ること。 15章1節から17節
 見出し 2、 キリストと1つになること。 15章18節から16章4節
 見出し 3、 聖霊を期待すること。 16章5節から16節
 見出し 4、 悲しみが喜びに変わること。 16章17節から33節

区分 第5  イエス・キリストが弟子たちと、未来との弟子のために祈る。 
      17章1節から26節
区分 第6   主イエスの究極の苦難。 18章1節から19章42節
見出し 1、 裏切りとイエスの逮捕。 18章1節から12節
見出し 2、 ユダヤ人の裁判  18章13節から27節
見出し 3、 ローマ人 ピラトの裁判 18章28節から19章16節
見出し 4、 キリスト、十字架の処刑 19章17節から37節
見出し 5、 キリストの体の埋葬 19章38節から42節

区分 第七 キリストの勝利の復活。20章1節から29節
20章の見出し ヨハネ著者による、これを書き残す目的の言葉 宣言。
20章30節から31節

結びの言葉。21章1節から25節

ヨハネはイエスキリストは神の子 人々の救い主であると言うことを訴えております。
この福音書が描かれた年代は紀元 80年から95年の間と思われております。

3つの福音書 マタイ ルカ マルコは、少しガリラヤの働きを省いていますが、それらに対してヨハネは、ユダヤとエルサレムでの主イエスの働きを、前記の3つの福音書より多く記録し、神である 人であるイエス・キリストの人格の奥義について、さらに詳しく 深く洞察し記録しています。

ヨハネはイエスが1番愛しておられたものとして自覚しており、この福音書から明らかな事はヨハネ自身、著者がキリストの生き証人 記者としての視点で多くを描写しております。ユダヤ人の生活をよく知っていて、初代教会には多くの影響を与えた指導者の1人です。
アジアの教会指導者たちがエペソに住んでいた老齢になっていたヨハネにこの霊的な福音書を描くように依頼したと言われております。
それは当時、信仰者の間で起こったイエス・キリストの特徴と人格を否定する危険な異端。


キリストそのものとその教えを否定し、ヨハネの信仰を反映するためだったと言われ 人々を説得してキリストを否定したのです。
異端とはキリストの教えの一部分は信じても、キリストの教え全体を信じていなくて、その異端者の考え方が中心です。そんな彼を信じてユダヤ人が引き込まれ誤った教えに従う人々が居ました。(クリントスはキリスト神であると言う事実を否定していた。) 

当時の異端者はキリストと一緒に生活していないで、直接、キリストを知らなかったからです。
また当時の異端としてはマニ教の影響を受けた二元論やグノーシス、ヨーロッパの様々な神話に影響受けた異端などなどが発祥しました。

それらに対抗するために、主イエスが実際に生きて、人々に示された神についての重要である事をヨハネは書き記しました。今日に至ってもヨハネの福音書は教会には、今も変わらず重要な証言となっております。

聖書を読む時には、区切られた章や節で読み分けるよりは、私が示した、書いた文脈の流れで読むとき、意味が深く理解できるかと思います。あなた様が聖書を読まれるときに、私が述べた事が参考になれば大変嬉しいです。

終わりに、これを見てくださったあなた様に、聖霊による助けと聖書の理解が深まるようにとお祈りいたします。


3月3日 ひな祭りですね。ひな祭りの人形に生まれた子供の災いを身代わりになってもらい川に流す習慣がありました。今は雛人形自体が高級品となって川に流す事は無いけれど、紙に書いた雛人形を流す習慣が今でもあるようです。

さて、1968年、昭和38年の大雪のひな祭りの日に私は洗礼を受けました。14歳でした。時の流れはあっという間です。
         hk02

教会に行って2回目にイザヤ書53章の朗読があり、その言葉から意味を知りました。
私たちの災いや苦しみや病をキリストが背負ってくださると言う事を知り、納得出来ました。


イザヤ書53章には以下の言葉が書かれてあります。

53章1〜12節 * 主とは神のこと

1、私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。

2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

 53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

 53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

 53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

 53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

 53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

 53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

 53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。

 53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

 53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

 53: それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。



14歳だった私は朗読なされた意味の全てをその場で全部理解は出来ませんでしたけど、キリストは人を知らず生まれ十字架にかかった事は知っていましたが、イエス様の生涯が生まれる前の紀元前701-681年の間に書かれその通りになったことに驚きました。

またそんなに簡単にイザヤ書の言葉が納得できたこと言いますと、「打たれた傷で癒される。」と言う言葉から納得できたのです。この教会に行こうと思い立った理由の中には、私自身の扁桃腺の癒しを体験していたからです。この教会に行く半年前ほどに、私は扁桃腺の手術のため2人部屋に入院しておりました。
隣のベッドの人がラジオを聞いており「うるさいなぁ〜」と思いつつも、ラジオで語られている福音放送に少し耳を傾けてしまいました。
pixta_14338754_M-min

src_10653926

外国人のたどたどしい日本語で、「病気で入院している人がイエス・キリストによって癒されるように。そう思う人はアーメンと言いましょう!」のアナウンスに耳を傾けてしまい、
キリストに祈る意味も良く理解してはいませんでしたが、本当に神様がおられるなら、治りなりたいと、アーメンの意味もわからず、この神様にお任せしようと決心して・・「アーメン!」言った途端に頭からつま先まで何か?電気が流れるようス〜ッとスキャンMRIされるような感覚に襲われて感動感と温かさ包まれ、なぜか涙が溢れてしまったのです。

ちょうどその日は私が手術した当日だったので看護師が何度も検温をしに来て首をかしげて「不思議ねー熱が出ないわ!」と言いながら何度も何度も検温を繰り返しに私のベッドの間を往復していました。
後で知った事は手術後には高熱が出るらしいのですが、一切。高熱が出ていなかったと後々に、看護師の方から伺いました。手術の傷跡も一般よりも早く治りました。


そのことが心にあってキリストのことを知りたいなぁと思い始めて、たまたま同級生にそんな話をすると、「それならあそこに教会がある。俺もそこの教会に何回か行ったことあるから一緒に行こうか。」と教えて誘ってくれたのです。そして初めての教会に行った日がちょうどクリスマスの日でした。クリスマスの御祝いの時、教会って楽しそうだなーと思いました。


話を戻して、先ほどのイザヤ53章から、預言は驚きでした。キリストの生まれ、その生涯が書かれた通りにそれは実現したことに、驚きを隠せませんでした!!キリストが十字架に掛かった後に蘇った、復活したことを知り驚きました。

14才でしたが、キリストは人知れず家畜小屋で生まれたことと十字架で死んだことくらい知っておりました。
予言通りになり。人の苦しみや病を身代わりになったんだと前記のイザヤ書を読み上げた後、詳しく教えて下さり理解しましたし、私を癒やされた信じようと思いました。

何があってもこの神様、キリストから離れないようにしようと決心しました。

幼かった私は罪に対する自覚はあまりなかったと思います。ただイエス・キリストが、父なる神が真の神 創造主であることを信じることができました。

小さく祈った印を求めたとき、クリスマスの星のように流れ星が観たいと呟いた途端に。それが目の前にあったからです。そして、この神、キリストを一生涯 礼拝していこうと心に決めました。

両親は仏教を信じていてその様子を見ていてあまり仏と言う存在に疑いを抱いていたからだと思います。なぜなら仏を信じている両親を見ていて苦労ばかりしていたから良いことないと幼心に思っていました。

成長するに従っていろいろ問題を抱えてきました。そして罪の意味も成長するに従ってわかってきてそれを神様に委ね許しを乞うこともできるようになりました。
妻の癌、その死を経験し、なぜ先に死んだのかと思い悩みました。神様はすぐには回答は出しませんが、それ以上の大きな慰めを私に与えてくださいました。


また大きな奇跡、母のアルツハイマー記憶喪失認知症からも神は癒してくださいました。医者も奇跡だと語り、母は自分の口で告白して洗礼と聖霊(異言も)を受けました。

そのたびにキリストに救われて導かれました。キリストはすべての苦しみと問題や病を背負って取り去ってくださったからです。

前期のひな祭りの言われ以上に、キリストの身代わり背負ってくださる事は真実です。
紙に書かれた雛人形よりも、木でも石でも彫刻された物も沢山ありますが、それらに神々よりも確実に救いを与えます。確実に癒してくださいます。もしあなたが心から信じきるなら、。

完全に信じきれなくても、少しの不信仰でも、キリストの身代わり、罪からの解放を信じる事が出来るなら、神は私たちを見捨てずに、導いて私たちの思いと信仰を変えて下さいます。

それら以上に、先に挙げた彫刻された神々にはできなかった復活がキリストにはあるのです。キリストこそが真の神です。
私たちの苦しみや悲しみの元になっている罪 怒り 憎しみ等をイエス・キリスが身代わりとなって背負ってくださるのです。

ひな祭りと流しびな、復活の唯一の神、イエスキリストは流し雛より確実に、全ての災いや苦しみ、病を身代わりになり取り去ります。更に重要な事が有ります。

私たちが真の神を、知らず身勝手な生活、神様の思いから外れた的外れなこと。キリストの教えではその的外れな行動や考え方を罪といいます。十字架の死が、私たちの身代わりで、その代価としての死を、十字架の死が身代わりだと信じるとき、キリストがすべて背負います。
十字架で、私たちの身代わりに死んでくださって罪を許すだけでは無く、新しい命で生きるようにリセットできるように復活してくださいました。
キリストの十字架の死は単なる死ではなくて、私たち、あなたの為です。

私は今も父なる神、主イエスキリスト、聖霊を心から賛美し感謝します。この神様から何があっても、例え大きな過ちを犯したとしてもキリストから離れないでいようと決心しております。悔い改めるとき、告白して許しを求める時に、神はキリストの十字架を通して許して下さるからです。

神から離れない決心には、詩篇第1のお言葉があるからです。
詩篇1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
 1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

栄えるとは経済的なこと、名声的な意味より心の豊かさ、キリストに在る救いだと私は思います。

キリストを信じてもたらされる霊と魂の救い 心の平安があなたにもありますように
お祈りします。



私は書いているブログは、ライブドアー ブログです。

アイホーンやパソコンからログインしないで検索すると 安全ではありませんとURLの欄に表示されておりました。
最初は余り気にしておりませんでした。しかしながら安全性に問題=秘密、個人情報の漏洩につながると知って変更を仕様と、ライブドアーブログに問い合わせをしました。
暫くのあいだは、 順次対応しますとの返事でした。

ライブドアーはラインもですが、日本発祥です。しかし、確か?韓国系のネットの会社に買収されました。
それで切り替えの対応 ヘルプが遅いのかと思いました。
この現在のブログ以外に 私はキリストの関係関係のライブドアーブログを1本と料理と趣味の着物のブログ書いております。

その他、Googleのブロガーがもあります。
何もしないうちに、Googleの方は先頭のURLが自動的に切り替わり、安全ではありませんと表示されておりません。

するとやはり、検索順位と安全性が問われるだろうと、このライブドアーブログのURL変更が気になりました。そして手こずりました。原因は簡単。使用してはいけない記号文字で新規のブログ専用URLを書いて使用としていたことが判明しました。
加えてhttpsに変更できるように定められていたライブドアーブログの時が来ました。


つまり「http」より「https」の方がセキュリティ的に安全だという事です。
「https」は検索順位にも優位だという事です。

変更可能なときが来ても、中々上手くいきませんでした。 何度かヘルプを通じて問い合わせました。原因もようやく判りました。
元々、個人情報を盗む気持ちも、第三者には譲渡する気持ちはさらさら無いのですが、自分が検索してさえも安全ではありませんと表示される冒頭URLは嫌ですね。
カウンセリングを必要とする、求める方にはメールアドレスや電話番号をお伺いすることはありますが、第三者には個人情報は一切 漏らしませんからご安心下さい。
                    59429B55-FA6D-4478-870D-2C2076585AD2



そんな理由で、ブログも余り更新しておりませんでしたが、
「https」に変更が出来ました。 更新していない間にも訪問して下さった皆様方に、心からの御礼を申しあげます。
またコツコツ更新をしていきますのでどうぞ、温かく見守り下さい。謹んでお願いいたします。

このページのトップヘ