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心の風景、愛の聖書、福音と癒やしと日常から。ミカエル小栗

ミカエル小栗がつづる心の風景。聖書の福音は愛と救いと癒やし。日常の出来事の心の雑記帳風景ブログです。聖書に基づくカウセリング、祝福と救いと心の癒やしを祈ります。あなたの教会のメッセージ奉仕もします。ご依頼はメールにて!

2020年03月

カインとアベル。アブラハムから燔祭、羊🐏の全焼の捧げ物から、捧げ物 献金思考とは
神への感謝の捧げ物の始まりは、カインとアベルが初収穫を神に捧げたことから始まりました。神への感謝は捧げものとしての全焼の家畜を捧げる形が礼拝として、ノア→アブラハム→イサクと代々引き継がれます。
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出エジプトの途中、天幕作りの為にも十分の一を捧げるようになりましたね。定住後、エルサレムに神殿が作られて、神から受けた感謝や願いの捧げ物、誓いを果たす等からの捧げ物がなされました。モーゼの律法から十分の一が基準値になりましたね。
十分の一にも満たない捧げる寡婦のレプタを捧げる姿を見て、主イエス様は金額や形式よりも捧げ心を重視なさいました。
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新約時代なり、ユダヤ人の中から広がったキリストは神。この信仰に伴って、捧げ物の信仰遺産。伝統文化も自然体でユダヤ人から異邦人クリスチャンにも広がったのですね。
キリストの流された血を分かち合うコイノニアが世界に広がります。集められた献金は始めの頃はエルサレム神殿に持って行きました。エルサレム陥落後、世界広がり各地区のコイノニアは、共同体の活動から、集められた捧げ物、時代とともに変化。動物を全焼する代わりに献金に変わりました。
用途は長老たちの話し合いから、使徒の宣教活動支援やシナゴーグ→コイノニア→教会と発展し集まったバンや生活に必要な物を分かち合う目的で捧げ物→献金を収めるように次第に時代とともに代わりました。

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私たちはキリストの流された血からの救いを感謝、賛美する為に。感謝の捧げ物を各自が所属しているコイノニア→共同体→教会に、各自の信仰によって収めます。 所属している教会の活動を支える。エルサレム神殿を保守し支える意味からの信仰姿勢から生まれ引き継がれました。教会は神の国を広げる拠点です。その働きを支えるには、そこに集う教会員全体の役目で有り、神の栄光を現す為に必要なクリスチャンに与えられている役目であり、課題です。
神への捧げ物としての意味で捧げる十分一献金は私たちの祝福のを受ける土台の一つにもなります。
神様は天幕の礼拝所を創ることを望まれ、それ保持する事も望まれて十分の一の規定をユダヤ人に契約として命じられました。幕屋は、ダビデの神殿となり、シナゴーグに代わり、コイノニアが集まる場から、教会への時代と共に変わりました。
神の栄光を表し伝える場としての教会を保持することは、神の御心から始まっております。捧げる十分一献金も深い意味があります。
生活が切迫している時には、レプタの捧げ物と例えられる心からの捧げ物かどうかを、神は見極められます。イエス様は、先に述べたように寡婦の心を見ておられましたね。
献金の替わりに教会奉仕(労働)する時、所属教会へ奉仕の捧げ物も祝福の土台となり祝福があります。
教会に集う中で生活困窮なさる方を支援する活動も有ります。またあなたが直接、所属してはいないが同じ信仰を分かち合う他の教会を助ける目的から献金する事も出来ます。 パウロを支えた紫布の商人でルデアという婦人。アクラとプリスキラ夫妻。テサロニケの強化他の教会も、パウロを支え、通うじての神の国を拡大する為に献金を用いて、神に捧げました。
感謝、請願〔請い願い為に捧げる}誓願{誓い捧げる}賛美などなど様々な目的から喜び捧げる姿を神は観ていますね。 強制、嫌々ながら捧げるのは神は喜ばびません。 祝福と恵みは神からですが、献金した見返りを神以外から期待する事は良くない。 例えばアブラハムは『靴ひも一歩も人からは貰いたくない!』神からで有りたいと告白しました。
あれだけの献金したのに何のメリットが自分には何も無い!との呟きを聞いてビックリしました。なぜ?神にからの期待をしない!? 人にするの?て思うのは残念です。
誰かを支援することも、神のお名前で支援すると祝福が違いますね。支援した人を指図したり、見返りを求めないでください。何の目的から支援したかは、神は見極めます。先の記したように。アブラハムのように、例え靴ひも一歩でも人を当てにし無いで、恵みは神からが良いですね。

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教会に献金したらその用途には全員で話し合うことが大切だと思います。そんな話し合いの場で何も発言しないで、後からネットで文句を言うのは、折角、その方にある神からの恵みを剥ぐことにもなり兼ねませんね〜。献金は捧げる姿が問われる。
いつまでもアレコレと使い方に口出しすることは、捧げ切れていないのと同じでは? そんな気がしますね!? 神に捧げ話し合いで決定している献金は、神の物ではなく、自分が所有者だと言っていると同じでは無いですか?
献金を受けた、捧げ物受け取った方、教会が責任を神から問われます。より慎重になって用途を、神と会衆できめたら良いですね。
十分一献金は新約では必要ないと聞くことも時々。有ります。 しかしながら十分の一献金は、旧約から引き継いだ信仰姿勢を執行することです。拒否しても構わないとは言い切れないのです。神の意思が隠された恵みを剥ぐ結果になってしまいそうです。
ユダヤ人から異邦人へ引き継いだ信仰姿勢、信仰遺産です。守る信仰的価値 信仰遺産でもあるものです。先ずは礼拝と感謝を献身として、神に捧げなくてはならないと、神が定め望まれました。では捧げるのであれば何でも良いか!?決してそうでは無いと思います。神が喜ばれるものを心から準備して神に捧げることは大切です。
カインとアベルの例からも分かります。
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前記の十分一や生活苦からでも神に期待して捧げたら祝福を受けます。{実体験} イサクは飢饉の中で種を撒き、100倍の収穫を得た!と聖書に書いてあります。創世記26:12
恵みを受けるたイサクは絶えず、自分の父アブラハムに現れた神を求めていました。犠牲を捧げて礼拝を捧げました。創世記26:25 イサクは絶えず神との出会いを求めており、犠牲の捧げ物を伴った礼拝を捧げていたので、神様はイサクを顧みアブラハムとの約束からイサクにも祝福を与えます。
神様の臨在を求めない、礼拝しないでは、神から恵みは受け難い!この順番も重要です。神を礼拝し犠牲を捧げてから、日常生活の差し迫った諸問題を脇に置いていたのです。{砂漠地帯では生死を分ける水→井戸)を願っていたイサクですが、先ずは礼拝を捧げました。
何事も神の栄光を第一に求め続ける事と、神への感謝 讃美を表す為に、与えられた中から選んで準備して喜び捧げ物(献金)をするあなたの姿を見て、神はあなたを喜ばし満たすことを楽しみにしています。カインの様では無く、アベル{息、命、霊の意味がある名前}の様に捧げたいですね。
「 実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。」伝道者の書 5:19 そんな祝福を、神からプレゼントされるよう。私は祈ります。 真の礼拝と捧げ物をした者への、神からの約束です。真の礼拝者で無ければ受け取れない特別な恵みです。
神は金銭面の捧げ物だけでなく、私たちに託されている才能、また霊的賜物からも、時に応じて人生を通してお返ししていくことを求めておられます。

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マラキ書では神が喜ばれる捧げ物と間違った捧げ物と用意方が記されております。純粋に神に捧げることは、俗に言う御利益を求めての者とは一世を隠すのです。
真に捧げているのであれば、御利益云々と言う前に。必然的に神が与えると約束しておられる神の言葉です。一かけでも永遠に変わらず抜け落ちない神の言葉を信じて礼拝するものに与えられる恵みがあります。どちらが先か?でも無く、神を礼拝する者への神の言葉があります。

「御名の栄光を主にささげよ。ささげ物を携えて、御前に行け。聖なる飾り物を着けて、主にひれ伏せ。」砧鯊 16:29
「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」競灰 9:8 
私たちが与えれる恵みの目的は、私たちを整えて、神の礼拝者に育てるためです。
主の祈りの中でも、「御名を崇めさせ賜え」と願う様にイエス様が教えました。礼拝は捧げ物で有り、神からの恵みが与えられる約束です。あなたが信じようとしている神が、一切あなたに良いこと{救いも無い。癒やしも無い喜び楽しみも無い。等など。}をしないのであれば、一生かけて、その神を信じ続けられますか?
神が御子の犠牲の十字架を通して救いを与え、人生の喜び楽しみを整え、あるときは試練を通して、神に近付き 犠牲を 献金を捧げる事を通して、真の礼拝者に育てて下さり、更に信仰者として整え、生活全般を整える神キリストの約束が有り信じなければ「御名を崇めさせ賜え」と言え無いし、、祈れるように整えて下さいます。
カインはどれだけ神に期待して礼拝したでしょうか?
あなたに神からの豊かな祝福が有りますように。
参考に。捧げ物の価値を現代に置き換えて 牛→子牛 60-80 万円 成牛 300~600 ブランド牛=それ以上。 羊 1頭 7~10万以上  鳩 一羽 2500円から。 旧約で全焼にして、神に捧げました。
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聖書を読む時、解釈するときの基本はその描かれた文脈の主題からです。

例えばパウロのトゲを理解するためには、開かれた文脈区切りから読み解く時、その箇所背景と聖霊は私たちに何を伝えたいのかを理解しやすくなります。トゲについて、はっきりしている事はパウロ自身が第二コリント12章7節で語っている通り、「そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。」このとげの目的はパウロが高ぶることがないためだったと分かります。

パウロは何故?サタンを持ち出したか?彼の中にヨブの事が心中に有りました。パウロは旧約聖書に精通して、彼の信仰に誇りを持ちクリスチャンを迫害するほど熱心でした。復活したキリストに出逢って変えられました。奇跡を伴う癒やしを行い、キリストの教えを熱心に伝えました。
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彼にあった情熱、熱心が気を抜くとプライドに変わらせる恐れがある事を、神は知っておられ、サタンには病をもたらす事を許された事だと悟っていたパウロです。ヨブを苦しめる事をサタンに神様御自身が許可された事を彼パウロは悟っておりました。(ヨブ1章1−2節)ただその病がどのような物で有ったかは詳しくは語られてはおりません。様々な説を唱えられております。

神様にとげを取り除いてくださるようにと三回お願いした事(第二コリント12章8節)はキリストがゲセマネの園で父なる神に三度祈りますが、願いは退かれ、ご自身からの意思で、主イエスは十字架の道を選びました。

私たちも熱心に神に祈りますが、御心でないと分かった時きっぱりと、私たちの思いを改めて見直して神に従う姿が重要になる時が有ります。《ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。 〜 「あの子は死んだのか。」彼らは答えた。「お亡くなりになりました。」 20:ダビデは地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した。サムエル記下12章13‐23 ダビデの祈りと神との関係性もパウロの姿と重ね合わせる事も出来ませんか?
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トゲを持ちながらの宣教の旅は辛く大変だったと思いますが、殉教死するまで、従順に神に、キリストに習い従順に従った事が容易に理解出来ます。

『病気の私を受け入れるのは大変だったはずですが,皆さんは見下したり毛嫌いしたりせず,私が神の天使かキリスト・イエスであるかのように迎えてくれました。』ガラテヤ4:14に書いてあるように、パウロは謝辞を述べるほと病んでいたようです。

毛嫌いとは? 病を持つ者をギリシャ圏の中では身体的、経済的な敗者として見る風潮文化が有りました。歴史上の事実と重ねる時、聖書理解が深まります。パウロの信仰の霊的背景を知るとき、私たちの聖書理解も深まります。パウロは目が悪かった様です。 「ご覧のように,私はこんなに大きな字で,自分の手で皆さんにこの手紙を書いています。」ガラテヤ6:11 
ガラテヤの教会を共同体、キリストの流された血を飲む=聖餐する仲間で有るコイノニアの実践し助け合う姿を感謝したたえてもいるパウロです。ここにパウロの遜りの姿を透かし見る事が出来ます。
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聖書を読み上げて、霊的な解釈を広げる事はある点では大切ですけども、枠を広げ過ぎて、私感的な解釈、深読みし過ぎて本来の文脈から外れ過ぎてしまう危険性が有ります。聖書を残された神の意思や思いからも外れ過ぎてしまう危険性が出て来ます。

幼子のように書かれたまま素直に文脈から読めば良い気がしませんか?
トゲから分かる、理解出来る事では、神には祈っても御心にそぐわない時、私たちがとる祈りや態度が分かって来ます。私的解釈するよりは、同じテーマで書かれた聖書箇所を引用する方が賢明ではないでしょうか? 主題から外れ過ぎて、個人的な考えを聖霊の言葉を利用し加えることは危険!
行き過ぎると御心から外れ異端になる可能性もあります。御言葉を利用し考え方を押し付ける、自己実現にもなってしまいます。

主イエス-キリストの御名で聖霊の助けを求めながら聖書を読み、主題から外れ過ぎ無い理解したいと祈ります。          
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コイノニアは交わりと訳されることが多いが、

原点をたどれば、 キリストの血を預り 飲んで一致することです。わたしたちが裂くパンは、キリストの体を食べて一致すること。これがコイノニアの言葉の発祥です。この「あずかる」の原語は実は「κοινωνία コイノニア」です。
クリスチャン同士が仲良く交わる、会話する。合流して楽しむことはないことが原点を見るとわかります。
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日本語「コイノニア」はだいたい「交わり」と訳される。パウロの言う「交わり」を理解するには、初代教会の状況を踏まえなければ分りません。
 初代教会は圧倒的に「プトーコイ 心底貧しい人Φτωχοί άνθρωποι 」すなわち、物乞いしなければ生きていけない人達で構成されいた。そこに生活水準が上の人々が徐々に共同体に加わり、貧しい人々との間に問題が生じ、そのことについてパウロが手紙を書き送るほど、初期の教会共同体においても貧しい痛みを抱えた人々が軽んじられていたということが赤裸々に報告されている。
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「プトーコイ」をなぜ「心底貧しい」というのか。
それはギリシャ語「プトーコイ」はヘブライ語の「アナウィーム」の訳だが、これは「心底貧しい人」「神以外に頼る他にない者」という意味で使われている言葉であり、宗教的・精神的な謙遜の貧しさではなく、具体的な痛みをもった人を指す言葉であるのです。

神はあえてその「心底貧しい人達」を教会のメンバーとして選ばれた、ということを忘れたくない。というのは、この初代教会の文脈から言うと、コイノニアが意味する「交わり」というのは、いわゆる交流であるとか仲良くするということではなく、心底貧しくされた人々とキリストに有る私たちとの「痛み分け」であり、様々な痛みやレッテル貼られた人々問題を抱えた人々との「痛みや『穢れ』の共有」を意味するのですね。
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経済的な貧しさもありますが、キリストを知らない霊的貧困、霊的な貧しさを持つ人々に福音を伝える霊的な働き分かち合い、キリストの教えを伝える。あなたが聖霊に助けから聖書で学んだことを、知ったことを隣人に愛をもって分かち合うことが重要になり、それが霊的なコイノニアの始まりでした。
教会と他の場所でクリスチャンが集まり交わる、リラックスして話し合い楽しみを分かち合う交わりがコイノニアでは無いのです。
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コイノニアを通して、キリストの血の恵み=救いを知り信じた上で 神の愛と救い。その教えを分かち合い実践する助け合いを共有することがコイノニアの第一の目的です。 その結果。キリストから離れることのないようにコイノニアが形成されました。コイノニアからあなたの隣人にキリストの血を飲む救い 福音を伝え分かち合い語る 実践する場がコイノニアではないでしょうか?    
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過日に、100%と神を信じる事は重要であり、
信じる事によって、癒やしを受ける事が可能になると、私の個人的な信仰見解を述べた事があります。
それを見た方からのご意見で、繁栄の神学を語る牧師達の常套手段との意見を頂きました??
何故に繁栄の神学と言われたのか?その方の信仰的背景は分かりませんけれど、。
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その方が言われた事は次の通りでした。
『ヨハネ5章のベテスダの池の場面で、イエス様が癒しのために大勢の中から選んだのは、イエスの名前さえ知らない人でした。信仰が強いから癒されたのではありません。「癒されるためには信仰が必要だ」と説くのは、聖書的ではありません。『信仰による癒し』を行う、いわゆる『繁栄の福音』を説いて富を得ている悪名高い牧師達の常套句です。

イエス様が癒しを行なったり、私達の癒しの祈りが聞かれるのは、すべて神の栄光のため、私達が悔い改めて福音を信じるためです。癒しの有無を私達の信仰の強さとつなげることは、ただ神様の主権によるわざを矮小化し人を引き上げることになりますから、注意が必要ではないでしょうか。』とのご意見でした。


繁栄の神学の細部については詳しくは、私は知りませんが、神学以前に「神は癒す神、救いの神だ」と信じなければ何事も始まりませんね。神の言葉を、父親が語った約束を待ち続ける子供のような気持ちで私は待っています。


私に意見を述べてくださった方を感謝します。それをきっかけで、もう一度。再点検いたしました。そしてその方への返信は次の通りです。

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コメントありがとうございました。

「さて、ベテスダの池の人に信仰が強いか?弱いかは書いて有りませんね。イエス様が言われた通りに従いました。全くイエスを信用しない人が言った言葉じゃ動かないでしょうね?

福音書の他の箇所から併せて見れば全くイエス様を信用 信頼 しなければ信仰にも発展していません。役人のその場に居ない遠く離れた子供を癒やすには、役人自身の信仰告白からイエスは癒やしました。


ただ一般的に常に、私たちは特別な人を除いて100%の信仰を保つ事、継続するのは難しいのではないでしょうか?

そのような弱い私たちの信仰を助け補うのは、聖霊の力と助けだと信じております。あいにく繁栄の神学の隅々迄は、私は詳しくは分かりません。キリストを信じれば全ての恵み、繁栄すると言い切るのは自己実現の様だと思った事が有ります。ダビデに反逆した子供が亡くなり、ダビデは断食し祈りましたが、子供は生き返りませんでしたね。またダビデが神殿を建てたいと願いましたが叶わず、神様は何故?叶わない理由をダビデに教え、その願いを息子ソロモンに引き継がせました。


あなたが繁栄の神学と思うのは何故か?「信じれば叶う」全てが常套手段と言われましたが、御心に沿うことが、神の栄光を第一に考える事がいけないのか?私には分かり辛く残念です。申し訳有りません。

神学だけでは人は救われず癒されない気がします。私たちの願いが思い通りに全て叶うこと、繁栄するとも聖書は書いておりません。

繁栄の約束は無いですが、御心に叶うなら祝福を受けると書いて有ります。


御心に叶うのは神の栄光の現れを願う事と思います。

私がキリストを信じる事には反対しなかった母親(母に信じるように説得したがなかなか信じなかった。)がアルツハイマーになり記憶がなくなりました。このままでは救われないと祈り断食しました。癒されることより、救われることを優先して祈りました。


聖書の言葉通りの信じるように時間がかかりました。おおよそ4年後に、聖書に書いてあることを信じて、額に手を置いてオリーブオイル救いの宣言、(神の栄光による救いが有ると聖霊の力を求めながら信じると)宣言した後、3日目に完全に記憶が戻りました。


聖書には長老を招いてと聖書には書いて書いてありますが、当時の私の教会では、癒しは使徒行伝時代に終わった!と聞かされており、このままの神学、このまま信じれば母は救われ無いと救いと癒しの関係を追求調べました。聖書には「癒せ!」とキリストは命じたと書いてあるギャップと、また弟子たち命じた癒しの真実、神の言葉に現れを求めました。

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結果、カトリック 聖公会 他のプロテスタント超教派のセミナーに参加してもし食べました。その結果、私一人で神と向き合いました。詩篇1689「私は主を私の前に置いた。ー礼拝。」


しばらくして母の口でキリストを信じると告白したので、牧師に依頼して洗礼を受けました。87歳で洗礼から97歳まで元気で神を賛美しました。主の祈りを書き出して毎日。いつも唱えるように教えました。

しかし、高齢なので全く教えていなかった異言でも祈り、神を賛美するようになりました。また、母が7〜8歳の頃に救われる為に祈られた宣教師が居られます。

その方は亡くなりましたが、祈りは神に届いて80年後に、母が救われたのです。


この出来事を通して私は多くの人をに対して祈り始めました。やはり祈りをする私と祈りを求める方の間に、神に対する信頼と一致がなければ、目を見張る癒しは少ないと思います。23人が集まるところに聖霊が来られると言う聖書箇所マタイ18:1820を大切に信じています。

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ただ癒やしを求めて来る人の中で救いを第一に求めない事、神の栄光を第一にしない時、その人への祈りは困難に感じます。

それでも忍耐と期待して何年でも祈り待ちます。

母親が記憶喪失であっても(母親に信仰が無くても癒され。) 救われた救われたからですね。

最後まで読んでくださりありがとうございます。あなたに神イエス様からの祝福が有りますように。以上。の返信を差し上げました。


繁栄は自己実現の間違いを起こします。神の栄光を第一にしない救いと癒しはない気がします。

神の栄光を第一に地上に現れを願わない献金をしたとしても、自己実現を目的に献金を、あなたに100倍になって返って来ない気がします。 

救いも癒しも、和解や平和、平安も、神が語った言葉を信じなけばならないと思います。不信仰な私たちが信じる事が出来るように、聖霊の助けをイエス-キリストのお名前で求めませんか?

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私が違和感持つ神学も有ります。人間の救済はあらかじめ定められているというカルヴァンの宗教信条の予定説がその一つ。しかし私は、信じる全ては予め決められてはおらず、その時。その人が如何に神を信じるかただと思います。

父なる神は、御子キリストを信じる全ての人を救います。
いつの間にか変わる 変化する神学も教義も{異端に多い}有ります。
全ての神学を否定はしません。信仰的な方針 アドバイスは有りますが,全てでは無いと思います。


神学では人は救われず、左右されません。神の言葉そのものが重要であります。

神の言葉 聖書の言葉は永遠変わらず、真実なのです。

神の言葉に精通したパリサイ派、サドカイ派らの神学は行いに囚われ、神の救いの本質からは逸れた気がしています。勿論、行いと信仰のバランスと実践は大切ですが、私たちは知識豊富な人が考えた神学に左右されない、神の言葉そのものを見続けて、素直に幼子のように父なる神の言葉を信じたい。つまり神の栄光を求めて行きませんか?そのものに注目し期待を込め、聖書に書かれた言葉を幼子のように慕い求めませんか?


様々な願いを、私たちは祈る事が出来ますが、御心の計画に沿っているか? 御心が第一なのか? 神の栄光につながっている願いなのか? は、吟味して聖霊によって導かれ悟る事も出来ます。私たち、人間側としては、神様ご自身を強く信じたうえで、山を動かす信仰があるかが問われる気がしませんか? 

繰り返しておりますが、様々な神学とか願いは自己実現のためでは無く、山を動かす程の強い神への信頼、信仰と、神の栄光の表れを第一にしているかが追われている気がします。

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聖書からお笑いについてちょっと考えてみました。

不安も、怒りよりも、泣くより、許すことと笑いことから、身体の免疫力が上がり癒やします。

創世記18章1−15節 「神はわたしに笑いをお与えになった」始めはサラはあざける、馬鹿げたと笑いましたが、神は癒して喜びの笑いに変えました!

「あなたがた今泣いている人たちは、幸いだ。笑うようになるからである」(ルカ6:22)、

「泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり踊るに時がある」(伝道の書3:4)

「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いてわたしたちは夢を見ている人のようになった。そのときには、わたしたちの口に笑いが舌に喜びの歌が満ちるであろう。」
旧約聖書 詩編 126:1-2
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涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。
種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
詩編 126:1-6

喜びには笑いが有ります。悲しみに笑いも有りますけど、「笑うときにも心は痛み、終わりには喜びが悲しみとなる。」箴言14:13
聖書は心から笑う事を余り記録していませんが、一つにはイエス様が大笑いした記録がありません。けれど例え話とかイエス様と話の中にはユーモアが溢れています。

ただ全体的には否定的です。
ユダヤ人の習慣では人前で大笑いする事を避けて?日本人と同じ感覚があったのかもしれません。
 悲しい人はその悲しみを笑いで隠しているかもしれませんし、心のうちでは喜んでいても、人は泣き笑うかもしれません。 だから、見た目の感情は私たちに本当のことを教えてくれない事が有ります。

笑いには怒り、悲しみ、あざけりと言う意味があることを神は見抜きます。

異言を語る事は好意的ですが、悲しみを聖霊の力で押し出すように笑うことは人は否定します。唯一の実例 私の知っている事としては、やはりサラが嘲りの笑から、彼女の胎が癒されて喜びの笑いに変わったことでしょう。
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今から20年以上、前になりますが、トロントエアポート フェローシップチャーチのジョン&キャロル牧師に祈られたときに、おかしくもないのに、急にお腹がケイレンして、アレ!?と思っているうちに、なんと笑が私の口から飛び出しました。

自分では笑う事には無意識であって止められない笑いが出ました。それはまるで初めて異言を語った時のようした。

床の上に転がってかれこれ1時間以上も笑い続ける経験をしました。やめようと思って一瞬は止められますが、一息つくと次の笑いが繰り返されました。
そして起き上がった時にすっきりとした気分。もう一つは肺炎から中耳炎になり極度の難聴でした。耳がほとんど聞こえませんでしたが、聞こえなかったその耳が聞こえるようになっていました。
感謝の祈りをしようとすると、大きな叫び声が次に口から飛び出して、また笑いこけてしまいました。初めて経験した不思議な笑いでした。神を賛美しようと思うと出てきた、感謝しようとすると出てきた笑いで、周囲の人々をまた笑いに導きました。
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全ての賜物は制御できると思う言う主張、( ガラテヤ5:22〜23)から賜物は全て制御もできると思う方も中には居られます。止められない異言や笑いを否定するのですが、私の経験した事は不思議な神の力、聖霊の恵みでした。

初めての異言は急で突然(アッパールーム)でしたね。何度も繰り返していると制御する事も訓練されて出来るようになった事と似ていました。また異言を体験していても、何故か笑いには否定的な方も中には居られるけれど、。何度も何度も聖霊に満たされたら賜物は訓練されてきます。私にとっては聖霊に満たしの結果、異言似ていました。笑ってはいけない時、異言で祈ってはいけない場合をわきまえて訓練されてましたよ。

その後、聖霊に満たされて笑う間に、心の深い傷が癒されていました。(インナーヒーリングです。)
インナーヒーリングを受けたら、なかなか人を許すことが難しかった、私でしたが、敵対した人 裏切った人 怒っていた人を許す気持ちにかえられました。許す決意(幼い頃から受けた虐待を許して、。)をして母のために救い祈りました。するとアルツハイマーの記憶喪失の母が3日目に癒されたこと、半年後に洗礼を受けた事を告白します。
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聖霊様はキリストの取りなしによって私たちの側で人知を超えた事をなさいます。あれこれと神学では割り切れない自由をなさる聖霊です。神学では人は救われないのですね!この賜物が欲しいと長く祈っても与えられないし、この賜物はちょっとなぁ〜必要としないけどと思ってもキリストが認めたら急に与えられたりします。
あなたが今、不安や悲しみを抱えてたら、それらを全てキリストに委ね解決されることを信じましょう。悲しみが、憂いが聖霊によって笑いに変えられる時が来ます。笑いは心を軽くし、あなたを癒します。
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不安も、怒りよりも、感謝して泣く、許すことと笑いことから、身体の免疫力が上がり癒やします。
今コロナとか感染病が流行していますが、心配するよりは、先に神様に日ごろの感謝を捧げて賛美と笑う、微笑む日を過ぎす時、あなたの体の免疫力が上がっていきます。

あなたの祝福と心と身体の癒しを命、救いの為に祈ります。日々、聖霊によって笑いながら生活することができますように。

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父なる神を知る、御心を正しく知る事は

私たちの信仰と行動を吟味することと、矯正する事が出来ます。
NO1 前記のブログとして聖書{新改訳聖書第3版}から『恐れ』という言葉をリストアップしながら、神の御心の深みを知りたいと思いました。

恐れという言葉は旧約では478回。新約では120回 使われています。 
恐れの言葉。前後には様々な使われ方、意味が隠されています。怒りではない救いと恵みの啓示が多くあります。

親は子を叱っても、心の底から怒っていない場合があります。親が大声を出すと、子どもは一瞬すくんで立ち止まります、何か間違ったかな?と考えます。
父なる神もキリストを通じで、私たちが神の子とされたことを認めて下さいます。注意喚起をするために、怒りの言葉を用いて、矯正して下さいます。

アブラハムの子どもイサク。その父と同じ過ちを犯しました。その陰には、神より人を恐れたことが元でした。
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創 26:7 その土地の人々が彼の妻のことを尋ねた。すると彼は、「あれは私の妻です」と言うのを恐れて、「あれは私の妹です」と答えた。リベカが美しかったので、リベカのことでこの土地の人々が自分を殺しはしないかと思ったからである。

その後、神はイサクに現れて、恐れてはいけないと語りました。イサクの恐れの真意を知っておられたのです。

創 26:24  主はその夜、彼に現れて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」

また、イサクの子。ヤコブも、神の臨在を始めて触れたときに清い恐れを感じました。
創28:16 〜19 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。
そして、その場所の名をベテルと呼んだ

神がヤコブを守ると語っていました。しかし、年月を経て、日々の生活が複雑になってくると、神を一瞬、一瞬。毎日。意識することがおろそかになりやすくなりませんか?

創 1:31 ヤコブはラバンに答えて言った。「あなたの娘たちをあなたが私から奪い取りはしないかと思って、恐れたからです。
ヤコブはラバンの関係、不仲から、本来の守りと救いを神を思い出してキッパリと明言し信仰をリバイバルしました。
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創 31:42 もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が、私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の悩みとこの手の苦労とを顧みられて、昨夜さばきをなさったのです。」

創 31:53 どうかアブラハムの神、ナホルの神──彼らの父祖の神──が、われわれの間をさばかれますように。」ヤコブも父イサクの恐れる方にかけて誓った。

創 32:6 使者はヤコブのもとに帰って言った。「私たちはあなたの兄上エサウのもとに行って来ました。あの方も、あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます。」
 32:7 そこでヤコブは非常に恐れ、心配した。

創 32:11 どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。

私たちは敵対する隣人を恐れ差し迫る様々な現実に目を向け過ぎて心配します。しかし神の元に行き冷静に恐れることが出来る。神の恐れは知恵を与え解決に導く知識や知恵が与えられることを、アブラハム、イサク、ヤコブの体験を聖書を通して疑似体験が出来ます。
あなたに神の祝福と導きがあり、正しい恐れに導かれますように。

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聖書には、神を恐れることは、
神を愛することは、つつしみの霊を与え、主なる神への尊厳を高めます。
前記のブログでは、エレミヤ書41:10 『 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。』をテーマに書きました。

日本語に訳され新改訳聖書{上記}に書かれた箇所を他の聖書では、この様になりました。
新共同訳ではイザ 3:10 「しかし言え、主に従う人は幸い、と。彼らは自分の行いの実を食べることができる。」一寸見間違えますね。?
【NKJV】キングス ジェームズ訳
Isa  41:10 Fear not, for I am with you;Be not dismayed, for I am your God.I will strengthen you,Yes, I will help you,I will uphold you with My righteous right hand.'
イザ41:10恐れるな、わたしはあなたと共にいるから、わたしはあなたの神であるから、がっかりしないで、わたしはあなたを強くし、はい、あなたを助けます、わたしの正しい右の手であなたを支えます」
【NIV】ニュー インターナショナル バージョン
Isa 41:10 So do not fear, for I am with you; / do not be dismayed, for I am your God. / I will strengthen you and help you; / I will uphold you with my righteous right hand.
イザ41:10だから、恐れるな。わたしはあなたと共にいるから。 私はあなたの神だからです。 /私はあなたを強化し、あなたを助けます; /私は正しい義の手であなたを支えます。

以上となりました。

長く親しんだ新改訳聖書第3版から。{恐れ!}と言う言葉を書き出してみました。聖書から言う観念の正しい{恐れが}見えてくる気がしました。
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聖書で最初に{恐れ}という言葉が表示されたのはエデンの園です。
創  3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」 神との契約を破った後に、神を恐れました。

創  9:2 野の獣、空の鳥、──地の上を動くすべてのもの──それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。
神は、権威に従うように、地上をアダムに委ねておりました。

創 15:1 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」
神がアブラハムに語っておられる、{恐れるな}は愛と慈しみに満ちていませんか?

創 19:30 その後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山に住んだ。彼はツォアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘といっしょにほら穴の中に住んだ。

ロトは徹底した神の滅びの方法を目にしました。その結果。ソドムに関わっていたと思えるツォアルの町に住むことを恐れました。ソドムとゴモラに対するさばきは、アブラハムの心により一層、「神を恐れて歩む」こと、「神の御前に全き者として歩む」ことを刻み込んだ出来事であったに違いありません。

創20:8 翌朝早く、アビメレクは彼のしもべを全部呼び寄せ、これらのことをみな語り聞かせたので、人は非常に恐れた。
創 20:11 アブラハムは答えた。「この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに、私を殺すと思ったからです。
アブラハムとサラの夫婦を、神は、アビメレク王に夢を通して啓示、恐れを与えて守りました。
差し迫っていた現実に、アブラハムは人を恐れましたが、神はアブラハムを知って激励しながら守りました。

サラの嫉妬から追い出されたハガルですが、その子供と共に守りました。
創 21:17 神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。

100歳近くになって、神の約束の子、イサクが生まれた後に、アブラハムは試みを受けました。
創 22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
神の尊厳を守り恐れるとき、次の手を神は示す、啓示されました。

続く。

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現代は様々な問題を抱える時代です。
それら問題は、私たちの恐れとなって日ごろの生活を脅かしてきます。
世界中では、コロナ感染症が世界に流行しています。株価は下がり円が上がり、ドルも上下ています。その影響で私たちの生活も不安定になり、感染症のために大きな集まり、スポーツイベントを始めとして教会での集まりも制限する人たちもいます。

その原因は何かと探し回り、その責任を追及します。この世界的不況は誰のせいだ?
この病気になったのは誰のせいだ!? 世界情勢がとても不安定です。
幸いにも日本は人権が認められております。自由に発言し様々な意見が飛び交うことができます。その中でいろいろの問題については、やはり誰かのせいだとその責任を追及する傾向が強いと思います。
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世界のどこかで必ず争い戦争があり、大きな災害も次々と起こっています。ある人々は、様々な恐れを持ちながら、その責任を神がいるのに、なぜ?このようなことが起きるかと、その責任は神にあるのではないか?と訴える人もいます。自分は悪いことはしていない。正しいのだ!第三者を悪者に仕立て上げます。

責任の追及、対象者を自分以外に向けるのは、やはり心の中にある恐れが原因ではないでしょうか?
様々な災害や病気が起こるときに、この原因はどこにあるのか?神様が私に対して警告しているのだろうか?と考えがちです。ある人々は携挙が近い、あるのではないか?心配したり、喜んだりしています。
こんな時によく話題になる人物がいます。それはウツの地に住んでいたヨブです。彼は神ご自身も認める正しい人でした。ヨブはその正しさが狂う事を恐れて心配していましたね。
「私の息子たちがあるいは罪を犯し、心の中で上を呪ったかもしれない。」と心配していました。ヨブ記1:5 
自分の家族や自分自身が病気になった後、友人たちが訪ねてきていろいろ問答しています。
正確な答えや責任者が見つからなくなります。神様もヨブに対して明確な答えを出しませんでした。
神はヨブ(私たちにも)に対し、創造と摂理の中で、偉大な知恵と力を示す神を認識するようにと迫りました。そして、神はヨブと私たちには「自分を義とするために、私を罪に定めるのか?」と問いかけました。ヨブ記40:8 翼は、神からの啓示を受けて悔い改め神の前にひれ伏ました。
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私たちが1番恐れるべきは災いや病気、不幸ではなく、サタンの誘惑、惑わしでもなく、創造者である父なる神です。私たちはキリストの十字架を通して救われており、天国をいつも見上げることができます。必要以上の恐れは不要だと私は考えています。

現在の私たちは不完全であり、ときにはヨブにように、神に責任を求めたり疑ったりしますが、未完成な自分を見てしまい、責任を自分自身に負わせようとします。それはキリストの十字架を無駄にする考えではないでしょうか? 聖霊によって完成された姿を天国において与えてられる姿を見上げながら、地上を歩もうではありませんか?

「恐れるな。私はあなたとともにいる。たじろぐな。私があなたの神だから。」イザヤ41:10より。
主を恐れる(畏れる)ことは知識の初めである。箴言1: 7
人は様々な恐れを心に持つ。今は感染病?正しく知恵を与える神を恐れるとき、神からの訓戒を活かせる。

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『いと高き方の隠れ場に住むものは、

全能者の影に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所 我が砦、私の信頼するわが神」と。
主は狩人の罠から、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。
主はご自分の羽で、あなたをおおわれる。
あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり砦である。
また暗闇に歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びも。
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災いはあなたに降りかからず、闇も、あなたの天幕(住まい)近づかない!
まことに主は、あなたのために、み使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守られるようにされる。
詩篇91からの抜粋

イエス様の時代はインターネットも無く、クチコミだけイエス様の元に行き 信仰=癒しを信じた人だけが癒されました。

現代の私たちには、色々な伝道媒介があります。けれど重要な事は、伝道方法では無く
心から信じて神の栄光を讃え喜ぶ姿を隣人が認めることでは無いでしょうか?



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