google-site-verification: google8bec6e3f3bda2812.html

心の風景、愛の聖書、福音と癒やしと日常から。ミカエル小栗

ミカエル小栗がつづる心の風景。聖書の福音は愛と救いと癒やし。日常の出来事の心の雑記帳風景ブログです。聖書に基づくカウセリング、祝福と救いと心の癒やしを祈ります。あなたの教会のメッセージ奉仕もします。ご依頼はメールにて!

2015年04月

十戒の言葉とこの箇所。

「あなたの親を敬え」
ある日。親を敬うことばかり強調されて教えられていましたけれど、後半は、あなたの幸せ 祝福のためにと書いてあった事に気がつきました。

母の看病。記憶喪失(アルツハイマー病。)諦めて看病止めろと兄弟から言われました。看病と小さなレストランの自営で疲れていました。

そのようなある日、十戒を守る事の意味。総論結論が、「あなたの幸せのためである」と書いてることに気がつきました。
                   SnapShot(423)

当時の願いから、私のとっての幸せ・・当時は、母が告白して救われることでした。
 
幼い時。母の怒りにまかせ受けた虐待を、私が怒って許していなかった事。私と一緒に暮らしながらも、ことある度に、兄が良いと言う事にも腹を立てていました。その感情や思いを、改めて神様の前で許す宣言をしました。

記憶の無い母の霊に向かって楽しかったことを色々語り掛けて・・数年間。ある日当然。キリストの恵み、救いから(イザヤ53)母記憶を戻しました。

母は 癒やしを受けた記憶が回復した後に、洗礼と異言の恵みを受けました。母は88歳を過ぎて、聖書の教理は教えてはいませんでした。まして異言などは・・説明が難しいことは全部省いていました。けれど、洗礼を受けたと、母が讃美中に異言で歌い祈って来たので驚きました。
 
それからは母は随分と信仰が変わりました。異言の不要説、教理を否定は行きすぎた間違いだと思います。聖書の言葉通り、御言葉は地には落ちていません。

 記憶喪失からの回復さえありますから、希望と愛と信仰、そして、根気よく、現状を見てもめげずに祈ることから癒やしが始まります。赦しと救いが生まれます。もちろん癒やしだけでは無い願いも、時が着たら答えられる事実として信じる事が出来るようになりました。

出エジプト20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。,<長く生きても、両親が救われないなら意味が無いと思いました。幸せに生きるために。。>

十戒の目的に上げられ言葉
神を何処においても、あらゆる点で認めることの重要性。
 
出エジプト20:24 わたしのために土の祭壇を造り、その上で、羊と牛をあなたの全焼のいけにえとし、和解のいけにえとしてささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福しよう。

<祈りの場に献身(全ての人が、)する事。 それは祝福を受ける、救いと癒しを受ける為に。

「隣人を許す。」

この隣人を赦しには大きな決断。決心と告白が要ります。 相手が家族の場合.余計に許す事は困難かも知れない。でも、隣人も、家族も、教会のメンバーに対しても、先に許す決心をすると、後から、感情が伴ったり、あわれみの心や愛が不思議と聖霊様の助けから、私たちの心にわいてきます。

感情的に許していないのに、「口先だけで許す事なんか出来ない!」と思います。しかし、神はその決心を買われます。聖霊様がこの許す心、決心に働いてくださることを知りました。 
先ずは決心を!! 許す決心をなさってください。 赦しは心の癒やしにつながって、身体を癒やします。

当時所属していた教会の牧師は、癒やしに対して熱心には祈っていただけませんでした。不満がありました。病室の母を見て、「お母さんはもう死んだのも同然!」と言い切りましたからです。
それを許す決心をして、自分から祈る決心しました。癒やしのことを改めて模索を始めて、祝福に変わり癒やされました。

不満、不平を言わないことの祝福

前記で幼子は、その親のなすがままに受け入れる姿勢をお伝えしました。
image

幼子以外で聖書を見るならば、ヨブという人物に目が行きます。彼は試練、病の人でした。
神のなさることを受け入れましたが、不満や不平を一言も漏らしませんでした。

ヨブ記 2:8-10 ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」
しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。

腹に一物在る事が、人の言葉と成って口から出すのです。
不満不平は、人に言うだけでは無く、この言葉を知っている、全能の神に向かっても言う事と同様になります。

神様!何故ですか?と問いかけて、解決を祈る事までは許されますが、それ以上に、文句や不平を言い続けることは、神は喜ばないのでは無いでしょうか?神は試練を通して、私たちを成長させようとしているのでは無いでしょうか?
 
不満から人を裁かない。 

人を評価する 批評ことまでは許されます。決定的な裁きは、神様の領域だと思います。

マタイ7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。

ヨハネ 8:16 しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。

箴言 24:17-21 あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、あなたは心から楽しんではならない。
 24:18 主がそれを見て、御心を痛め、彼への怒りをやめられるといけないから。
 24:19 悪を行う者に対して腹を立てるな。悪者に対してねたみを起こすな。
 24:20 悪い者には良い終わりがなく、悪者のともしびは消えるから。
 24:21 わが子よ。主と王とを恐れよ。

テトス 2:8 非難すべきところのない、健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて、何も悪いことが言えなくなって、恥じ入ることになるでしょう。

健全な心で、生活することが出来ますようにと祈ります。

 

全てのことにおいて、。

私たちは、神を知り、求めるときに、神様も私たち似たいしては、純粋な神の心を探すことを願っていますね。
『生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な御言葉を慕い求めなさい。』第一ペテロ2:2

言うまでも無く、幼子は、親の全てを見聞きして、その言葉と行動に一喜一憂しています。
親が語らずとも、その意思を察知する能力にも長けています。親自身も我が子の泣き声から、子供の状態を察知します。
                   
SnapShot(417)

                      
全能の神である父は、私たちの全てを知って下さいます。ここから、私たちの心に芽生えてくるのは、神への全くの信頼感や絆です。

詩 139:1 主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。

詩 139:2 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
  139:3 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。

詩139:3 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
  139:4 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。

私たちの全てを知っていただいている信頼から生まれる事は、神様を仰ぎ見み、信じる事。信仰では無いでしょうか?
 
しかし、その信仰を揺るがす事が人生では起きてきます。その一つが病です。

親の心、子は知らず。そんなことが多くはありませんか?
そうですね・・この事を表しているのは、イエス様のゲセマネの園の祈りにもありましたね。

マルコ 14:36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

上記のイエス様の言葉は、十字架の道に進む前の苦悩から発せられた御言葉です。主がこの苦悩を乗り越えて、父なる神の心に従ったのです。私たちも、時には理解不能なことが、起きてくる人生の中で、受け入れ通り過ぎなくてはいかない時があります。その経過、苦悩の結果は、後の人生を、神様はより豊かにして下さいます。

キリスト様は、十字架の苦悩を通り過ぎる決意を、父なる神の御心に従われました。結果。私たちの罪が許され癒やされる事をあたえて下さいました。 

何度も繰り返していますが、イザヤ書の53章。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
 53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた
               
SnapShot(423)

癒やしとは罪によって、失われた永遠の命からの回復の癒やし。身体の癒やしと永遠の祈りの救いは表裏一体です。神の言葉を純粋に受け取る姿勢。時には苦しみや、病を知って、後の大きな喜びに変えてしまう、病からの回復.大きな喜びをしります。神の信頼を知ります。

幼子は、泣き叫びがら、この状態から回復させる知って.親に疑いも無く叫びます。
イエス様も、ゲセマネの園の祈りから、取り除いて下さいと祈り、また 父の心を知って受け入れられました。
病がなぜ?この苦しみは何故?と訴え ても当初は理解が出来ない。けれど・・あとなって理解出来ることも多いですね。

神があらゆる癒やしを与えて 救いに導かれます。理由無しで、純粋な心で親を求めて信頼することも時には、必要な時はありませんか?神は、絶対に私たちを不幸に貶める事をなさいません。
SnapShot(419)

純粋に、神様の語られた御言葉を、余分な神学を抜きにして素直に信じる事も大切ですね。子供は転んで、泣きながら親の元に行くとよく見かける光景があります。「よしよし、痛いの飛んで聞け!」
抱きながら言われると、その痛みがス〜と消えた記憶が私たちは大なり小なり持っていると思います。 それは神の癒やしと似ています。 心が先に癒やされて、後から肉体の癒やしが始まっていきます。イエス様が言われた。「あなたの信仰があなたを治した」 この言葉をしっかりと受け止めなくてはいけませんね。

マタイ 9:22 イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。 

癒やしを願う方々は、この言葉と共に、イエス様により頼む信頼をどうぞ抱いて下さい。

許す。この重要性。癒やしを受け取り、受ける土台です。

主の祈りは、私たちはよく祈ります。この祈りに続く、イエス様の言葉は重要です。
マタイ6:14,15 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。
 
この意味に類似する聖書の言葉は他にもあります。
マルコ 11:25 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。

許さない怒りは身体を蝕んで、私たちの身体を病に導いていきます。貴方が癒やされない、何か叶えられたい事があるならば、許す事は難しい私たちの心ですが、その決意を告白することは重要です。

赦しす事から始まる身体の癒やしは多くあります。

主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ。主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。詩編19:8

 箴 4:20 わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。
 4:21 それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て。
 4:22 見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。
 4:23 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。

箴3:7 自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。
  3:8 それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。

箴14:29 怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。
  14:30 穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。

箴16:24 親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。

箴 17:22 陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。

16:24 親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。

振り返って、私たちの心を見張って、悔い改めて 神からの祝福。その一つである健康、恵みを得られますように。 疑いの無い純粋な幼子の心で 神様の言葉を求めて生きていきましょう。
 

癒やしに関わる事を、シリーズで書いています。

キリストは十字架に掛かって下さり、信じる者には永遠の救いを与えました。そして、私たちの朽ち果てる身体を、復活させて下さいます。永遠の身体・救い・癒やしです。

イザヤ 53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた

エレミヤ 33:3 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。【口語訳】エレ33:6 見よ、わたしは健康と、いやしとを、ここにもたらして人々をいやし、豊かな繁栄と安全とを彼らに示す。


image


賜物には何種類かの特徴があります。その中で、私は癒やしの徳に関心が高いので、神様も癒やしの祈りに応えて下さいます。

そこで、癒やしの祈りの依頼なさる方々のお願いです。 何故ならば、最も良い条件で癒やしを乗るのは、教会を立ち上げるために、教会に仕えての祈りです。

第一コリント4:12 あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。

コロサイ 1:24 。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。

私自身が癒やしを沢山受けました。それで下記の御言葉から癒やしの祈るようになりました。

image


ルカ 22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。

繰り返しますが、 癒やしの祈りの依頼なさる方々のお願いです。 何故ならば、最も良い条件で癒やしを乗るのは、教会を立ち上げるために、教会に仕えての祈りです。

個人的に祈る場合もそうですが、あなたの所属する教会、牧師先生の許可を得て頂きたいのです。
背後での霊的なとりなし。教会、牧師 司祭からとりなしがあると癒やしにも大きな違いがあります。
聖公会の教会でも癒やしのミニストリーをしました。

クリスチャン新聞に出した、私のミニストリーの告知を見て、信徒さまが連絡をしてきました、けれど、前記の理由から、一旦。その方の所属教会 牧師先生とご相談下さいともうしあげました。
後日、その方の所属教会とグループ教会、合同で、私を招いてくださいました。
その教会の牧師先生は、私と一緒に祈って下さいました。

イエス様も弟子達を二人組ませて送り出していますね。

マルコ 6:7 また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。

心合わせる祈りの力
マタイ 18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

白内障 耳の聞こえない人が聞こえた(最初の信徒様。依頼者) 肝臓ー透析回数が減った。肺気腫の癒やし等多数があり、恵また集会となりました。
                   

この経験から、教会に仕えて、。招かれての癒やし伝道集会を第一に希望します。

けれど、この様な集会が出来ない場合でも、一言、牧師先生の許可と背後のとりなしの祈りを、所属教会の牧師先生 司祭様に話されることをお願いします。

エペ ソ 3:10 これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって・・

キリストの栄光と信徒の養いの責任者は、地上においては、あなたの所属する教会牧師にキリストから委ねられているからです。

教団、教会、牧師先生が癒やしを祈らない場合は、個人的にお祈りします。権威、権利の放棄だと思うからです。
様々な理由から所属する教会が、現在。無いクリスチャン。未だキリストを信じるには至っていないが、キリストの癒やし・奇跡に掛けて観たい、試したい方も 合わせて、ご相談下さい。

直接、面会して祈ることが困難な場合は、祈りのハンカチを送ります。 攻めてイエスの衣に触れたら必ず治ると信じた女性の信仰に習っています。 ハンカチに手を置いて、助け主の聖霊様が癒やしの促進、完成を私は祈ります。その祈った証しです。 心合わせた祈りの力が現れます。

私は多くの人に、救いと癒やしを宣言して祈りたいです。霊的な秩序も重視します。
場合によって過去にどなたかに祈られても変化が無かった方。牧師から癒やしの祈り事を拒否されたからと言って諦めないでください。期待し待つ者にはキリスト様は必ず道を開き、癒やして下さいます。魂が救われる事が重要です。

異邦人の女性が癒やしを求めてきたときに、弟子がその女性を妨害したり、イエス様も一旦は断った、例も聖書には書かれています。めげない信仰には祝福が在ります。

遠慮したら癒やしのチャンスが遠のきます。この女性はユヤダ人ではありませんでした。色々の規定が隠れた歴史があります。現代に置き換えてみますと・・色々教会の間の問題。規定があっても、乗り切る説得するのは、あなた自身です。

私がどんなに多くの人々に癒やしを祈りたいと願っていても、あなたから連絡してこないならば祈れません。

一旦教会・牧師に、依頼することを駄目だと言われたとしても、・・此処では弟子や、イエス様自身が断っています。それを覆したのは、祈ってもらえたらきっと治ると思い続けていた女性の信仰。

絶対的な神は、喩え異邦人(使途行伝のペンテコステマの日までは、ユダヤ人だけの神でした。)であっても、異邦人にも、神であるという強い神への権威の信頼。情熱、信仰が イエス様も動かしたのです。マタイ。5:23−28を参照してください。
 
祈り支え合うこと とりなし合う事には、神は力。栄光を見せて下さいます。
私にとりなしの力。ミニストリーの進め方を教えてくださったヘンリーグーパー先生が居られます。
祈る場合は責任を持って時間を掛けて祈ります。

ヘンリー先生は、神学校入学の事を、私がまだ話していない前に、心の祈りを知り、駒を進めるように祝福して下さいました。
卒業後に、牧師伝道者としての祝福、按手をして祈ってくださいました。 卒業お祝い献金も頂きました。
感謝です。ゆっくり時間を掛けて、責任を持って祈る形は、ヘンリーグルーパー先生から学びました。

                     
                       

神の不思議!

私が癒しの祈りをする時、
祈る方の身体に、肩や握手をしたりして身体にの一部分に触れて祈ります。

すると、私の瞼には映像を観るように、病気中の患部が見えて来る事が多いです。
見えて来た患部に、キリストの復活の力を聖霊様に依って注ぎ込まれるように、細胞が新しく作り変えられるように、キリストの権威によって命じます。

最終的に按手、頭部に触れて祈り、キリストの霊が注がれるように祝福します。

箴言1:23 わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。

           
8c536274-s


神様からの注意、謙遜。へりくだりに心止めています。普段から、出会った人の為に執りなして祈っています。
すると急に、特定の人の為に祈るように示され事があります。最近だと、ある牧師先生の心臓に病があるからと示されて、その牧師先生のために祈りました。時々はまさか遠い思いも両方あってジレンマになります。
数日後、その牧師先生は、手術をしたこと知り、あの時祈って良かったと思い感謝をしました。

有る時には、神学生の時に私を支えて下さった方が、脚の切断する幻が見てて泣きました。信じ切れないし、そうであるならば軽度ですむようにいのりました。糖尿病の悪化から実際に足を切断なさいましたが、信仰が守られています。感謝です。その方の動画です。

                    


離れた人は、ハンカチを送りますが、余り、身体の患部が見えにくいのです。
見えると的確に祈り易くなります。

ところが、肺気腫の癒しが起こった方は、未だお目にかかった事が無いのですが、肺の様子を観て祈りをする様になりました。

見えた事を伝えて、間違っていたら大変です。私自身の信用性が怪しまれる!
それ以上に、キリスト様へ信仰が揺らぐからです。

確認した事。患部の様子を伝えました。

確信し、確認のメール返信がありました。その内容の一部を転用、下記。


メールありがとうございます。

小栗先生のおっしゃるとおり父は肺の右側に比べて左側が特に悪いです。驚きです。何か消えかけているということは良くなっているということですよね。
感謝です。


とりなし祈りの途中に見方患部の様子を確信し、その見えた様子が間違っていませんでした! <ホッと安心!毎回、そうなんです。>

ハレルヤ! キリスト様は生きています!ハレルヤ!

何時ものことながら、間違っていなかった事を聞くと、非常に嬉しい。再度、力を注ぎ祈る励みに成ります。

確認のメール返信をそのまま、表記します。率直な私の思いを、皆様にもお伝えします。



iPhoneから送信           
a84309b965f44d7ef2a0179158674a17


2015/04/23 7:29 メッセージ:

あなたのご両親を思いながら祈っています。まだキリストへの信仰を持っていないと聞いていたお父さんを、思いの他に簡単に(^_^) ハンカチを身に付けて下さる気持ちに変わったことを、神に感謝していました。

父、神子キリスト、聖霊様の三位一体の神では在りますが、キリストが天に帰る代わりに、聖霊様が私たちの身の回りに臨在して、助けて下さる信仰を持っています。それは、キリストの言葉からです。

あなたがよりキリストに信頼できる出来るように成るにはどうすれば良いか?キリストとあなたが良い個人関係になれるかを祈っていたら、お父さんの胸の様子を、突然。見せてくださいました。

普通は、本人の身体に触れないとわからない事が多いのです。
この事をあなたに言ってしまい、間違っていたら、あなたの信頼を裏切る結果になりますよね。だから何度も祈っても、同じ肺気腫の様子を見せて頂いたので、お伝えしました。

回復と信じます。この事は、お父さんに話す為かもしれないです。言いにくいかもしれませんが、ハンカチを渡す前の心配と同じだと思います。
キリスト様に祈られたハンカチを、お父さんに渡す事はためらいがあったでしょう。その心配 以上に、聖霊様は働き、お父さんの気持ちを和らげたのです。

癒しは救いにつながる為に在ります。
十字架 救いは、打たれた傷によって癒されたとイザヤ書に書かれています。
イザヤ書53の1から12

この箇所言葉通りに、十字架の救いは永遠の癒し、詰まり魂、霊の救いを第一に解きます。
第二に、この救いに預かるための身体の癒しの意味をも差してもいます。
だから安心してください。

お父さんやお母さんが癒された喜びから、キリストを信じ洗礼を受ける姿を思い描き、祈っています。

イザヤ書30の18も読んでください。
時が叶い、癒され救われて洗礼に至る迄を祈っています。

今日も元気に、神の護りと祝福が在りますように、小栗

以上が返信した内容です。

神様が病気で苦しんでいる方が癒される為に、神の臨在と力を示す為に、私が祈る時に患部を見せて下さると信じ、神様を賛美し栄光をささげます。

また同じく、このブログを読まれた方々にも、心から祝福を祈ります。



FBの知人が倒れました。
回復なさる間に、臨死体験をなさいました。

船田先生の体験。 ⇒をクリック 臨死体験 
倒れた際にの体験をブログに書かれ母と似ていました。
このブログを読んで、母の体験を語りたいのです。
IMG_4661


母は、アルツハイマー病から3年半記憶喪失ででした。祈りでも変化無し・・救いの告白が出来る一瞬が欲しいと、あきらめにも近い祈り願うというよりは、不満に近く、神の栄光を見たいという叫びを上げました。今振り返っても その心情は説明しがたいです。
3年半後に母の記憶が戻って、白い服を見た人が、此処に来るのは未だ早いから、息子<私、>の処に帰るように、言われたから帰ってきた。今までおまえは何処に行っていた?と言いました。最後の叫びかもと祈ったから、3日間。母の側におらず、断食をしていました。看護師さんの話では、私を最後に見た夕方に、急に「息子が居らん! 何処行った?」と言い出したので医師、看護師が驚き、噂が院内に広がりました。
私も最初は医療の力かとおもいました! けれどその頃 要約 認知症のことは病気と認識された頃で治療法が確立していない頃でした。

母が私に伝えたところでは、暗闇が急に明るくなり、黄金の道、光るダイヤモンド他の宝石の家、素敵な音楽が聞こえて、綺麗な門があって歩いていると、光る服を見て人から、此処に来るのは未だ早いと言われたました。帰る道が分からないというと、将来此処があなたの家だと言われ、その扉を開けてくださったそうです。その扉を開けると道が見たから『帰れた!」と言いいいました。 

母は聖書を読んだと思うのは、私の中にはありませんでした。ましてや理解が難しい黙示録を読んだとは思いがたかったのです。母が語り教えたその場所はまさに天国、新しいエルサレムと同じでした。下記にその黙示録を書き添えました。

母が洗礼を受けた日に、また始めて聞いた事があります。母が8歳のころ、アメリカ人宣教師との接触があったのです。明治時代の終わり頃の話しです。
その宣教師からキリストの福音を聞いたと思います。母の興味は、宣教師がくれる綺麗なカードに興味を持っていたそうです。

その女性宣教師は、母の救いを祈ってくださったと思います。その祈りは宣教師が生きている間には実現はしませんでした。けれどその執りなした祈りが、80年後に実現しました。記憶喪失から癒やされて、母が救われ洗礼を受けました。 
わたしよりも確実に天国を見ていました。新しいエルサレムを見て記憶が戻りました。

私たちは祈る・・速、答えを期待しますが、神の計画に沿って必ず答えられますが、即答されるとは限りません。神ご自身の栄光を最もよく現れるときが、答えの有る時を思います。へりくだり待つこと、祈り続けること。期待すること。愛すること、許すこと。希望すること。他にも上げれば切りが無いですね。

神を信頼すること、重要なことは、奥まった部屋で、神と格闘して祈ることかも知れません。

マタイ6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

救いと癒やしは神のものです。私たちが、天の父の栄光を見て、崇めることが出来るようにして下さいます。主の祈りの冒頭に書いて有る通りです。
聖書、黙示録を読んだと思えない母、記憶から回復して伝えは話は聖書に書いてる通りでした、厳粛に受け止めています。また癒やされた母が嬉しくて、隣人に祈り始めると癒やしが起き始めましたことも感謝です。

親との確執、和解は困難です。

私は次男で、いつも差別軽度の虐待、兄貴が良いとされました。

認知症で記憶が無く成った母。自営のレスらラント看病で疲れたいました。母のことは既に兄弟達も見捨てて、おまえが倒れるから、母のことは諦めろと言われました。

 幼い時からの虐待的な、私への扱いを思うとそれは簡単でもありました。 しかし、救いのことを考えると、それは出来ませんでした。最初に、赦し事の告白を神様に言う事から始まりました。 

あなたの父母を敬え・・十戒の一つ。未だ記憶の無いときでした。その後、悔い改めを、神は認めて下さったのでしょう。母が記憶を回復しました。赦しと和解は重要な救いをもたらすと思います。

ルカ22:32「私は、あなたの信仰が無くならないように、あなたのため似祈りました。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟達を力づけてやりなさい」献身に導いた御言葉の一つです。

天国、新しいエルサレムの様子<下記の黙示録参照>を垣間見てきた母です。認知症で記憶の無い母であり、未だキリスト信じて告白に至っていなかった母です。キリストの恵みと救いは、多くの人々に、チャンスがあるのです。諦めない祈り、救いを求めていきましょう。
あなたは蒔いた信仰の種は、聖霊様が水を注ぎ成長させて下さいます。
それは何時になるか?結果は、神様に委ねる無くてはいけないです。神様ご自身にとって最も良い時、栄光が最も現れるときですから・・。

このブログを見て下さった方々に、生ける神、キリストの祝福が在りますように。 

黙示録 21:11 都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。
 21:12 都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。
 21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
 21:14 また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
 21:15 また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。
 21:16 都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。
 21:17 また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。
 21:18 その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。
 21:19 都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、
 21:20 第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
 21:21 また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。
 21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。
 21:23 都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。
 21:24 諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。

私たち、クリスチャン祈りをします。

祈りは、神様との会話であり、父なる神を褒め称えるためです。 

その時の私たちのスタンス 距離感はどの様なものでしょうか? 

ラザロの復活では、キリストが問いかけたマリヤの受け答えに、イエス様は涙を流されました。


ヨハネ 11:33 ー35 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」イエスは涙を流された。
 
                  
石舞台の桜t(410)


この箇所に至るまでも、その後にも姉妹のマルタは、キリスト様には理性的に、 受け答えしています。

ヨハネ11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」

この違いは何でしょう? マリヤの答えには、主キリストは、その心を動揺させました。
マルタと違い。マリヤは理性を越えた愛情と気持がダイレクトに、イスト様の心揺さぶりました。 
この様なイエス様との関係における距離感を保ち、私たちも率直に訴えるべきでは無いでしょうか?

キリスト感動させる訴え、祈りをしませんか? 


この聖書箇所に至るまで、ラザロが病気だとか、命が危ないことは、キリストは百も承知でしたが、呼びに来られても、その腰は重かったのです。亡くなった知らせを聞いて、行動されました。事前に分かっていたのですから、 神の栄光 その現れのために、わざと遅らせています
 
ヨハネ11 「ラザロは死んだのです。
 11:15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」

 涙はどうだったのでしょう。 マリアの切なる訴えを聞かれて 泣かれたイエス様です。
不可能・・理性を越えて死人ラザロがよみがえりました。 

神には不可能は無い。 私たちの感情、思い 理性が・・制止しています。 神に近づく距離感を 身近なものに代えましょう。イエス様の一部始終が解る距離感からの祈りをいたしましょう。

そのための一つ。いつもキリストのことを考えましょう。

長い年月、キリストのことを考えていた女性が癒やされました。
当時の習慣から人目をはばかる立場の女性。、当時の人々からも忌み嫌われる立場でした。しかし。それでも、必死になって思い切って前に出ました。 

彼女は癒やされるとの確信の一点に 「きっと治る!」 と立ち続けたのです。 
その思いが、彼女の行動を代えました。人垣をかき分けるときには、誰かに罵倒もされたでしょう。


それでも前に出たい。その距離感を縮めたいと前に出て癒やされました。

 「お着物に触ることでもできるならば、きっと治る。」と心の内で考えていたからである。マタイ9:21

あなたが キリストに 訴えるとき 距離を縮めて前に出ましょう。 余り知性で 理性で動き 祈るより、イエス様が涙を流して下さるように、その御心に訴えかけましょう。


******************************

イエス様は、自ら進んでは 人を癒やされなかったように思う、そんな傾向もある気がします。
求める人だけに・・癒やしをなさいました。

私もそれに習いたいと・・第一には求める人だけに祈ります。

私はブログで、癒やしについて書いて告知 祈って来ています。 
しかしながら、誰かから依頼されないと 自分から積極的には 動いて祈っていません。強いて言えばこのブログ他、私が書いている時期だけでは告知しています。

私の場合は遠方の方には祈りのハンカチを送っています。 出来る事なら直接 祈りたいです。
何故なら、私は、癒やされたい方の身体の一部 肩や握手 または按手をすると病気の患部が 目蓋の裏に見え隠れします。 その部分に 聖霊の働きは特に在るように祈り 執りなす祈りをします。


そんなわけで 直接。面会して祈れたら良いのです。

しかしながらSNS Twitter FACEBOOKでも呼び掛けるだけです。「直接 会って下さい。」と言われない限りは、私からは押しかけてはいません。希に、「誰々に逢いなさい。」と御霊が語るときだけ伺います。

クリスチャンの方が多いので、所属教会の許可を取られてからのご依頼を受けています。
前記の「賜物はキリストの身体の教会を立ち上げるため」には、その理由が書いてあります。
教会として、癒やしを祈らない場合。 分け合って、現在は所属教会離れている方のために祈ります。
霊的なカウセリング、信仰の回復を祈ります。

またキリストを信じるに至っていない家族、友人のためにも祈ります。
 
また癒しを求める前には、 分け合って許していない 人がいたならば 和解をお奨めします。相手が和解をしなくても あなた自身が、神の前で赦しの宣言をなさることは重要なことです。

 教会の集会 個人からのご依頼は、このブログのメール欄から 

またはFACEBOOKの登録した後のメール欄からお受けいたします。 
個人の方は 教会員牧師と相談 認可の上でお願いいたします。

教会では癒やしの祈りはしない。してはいけないが、個人としてなら、許可をして下さる牧師 教会もあります。からし種の希望が捨てないで下さい。  

1度 教会で祈られ 余り良くない場合でも、ご相談下さい。聖書にもそのよう例が書かれています。
何度でも 色々の方に祈られることも良いことだと思います。愛情を持って見守って下さる教会、牧師先生がおられます。

良くなって、癒やされて そして所属している教会で、神の栄光が崇められる場合です。 

癒やしに限らず、

全ての信仰には期待が伴います。 その出発点は、もしもこの様に願いが叶うと良いな・・と言う期待感です。

期待感! それは信仰における辛子種です。

ルカ 13:19 それは、からし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。

 第一コリント 成長させたのは神です。
 3:7 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。

前記の、肺気腫の癒やしは、小さな期待感から、育っていきました。病は、改善されて良くなりましたが、未だ完治はしていません。しかしながら、小さな期待感は小さな信仰のからし種です。期待感は、完治される姿を思い描くことですね。 きっと良くなる・・良くなる姿を思い描き続けると、聖霊は信仰の水を注いで下さり、癒やしを完成させて下さいます。 
自分の信仰が弱いからとの告白は厳禁です。からし種を否定してしまいますね。

第一列王 18;44 七度目に彼は、「あれ。人の手のひらほどの小さな雲が海から上っています」と言った。


1〜2度祈っても変化が無い事も多いですね。 しかし繰り返して 祈っていく中に、期待感から信仰の種が育って行きます。 エリヤも、神に期待して祈りました。神が結果を与えられました。


信仰がない。信仰が弱い言葉。告白が厳禁です。癒やしに限らず、全ての事柄に共通点です。

私たちは、神様に、期待感! からし種を抱くならば、育ててて下さるのは、神様です。


長い間。病の完治を夢みていた女性がいますね。「お着物に触ることでもできるならば、きっと治る。」
と心の内で考えていたからである。マタイ9:21


考え思い続けること。小さな思いを、癒やし 完治を思い続けること。キリスト、家族の愛によって、信仰のからし種を育てて下さるのは神です。

 
fuyou 123

 


 

先日。祈りのハンカチを送った方がいます。

クリスチャンの娘さんからの依頼でした。

介護が大変なので、教会には中々行けないとか! 私自身も母の看病して、神経を使いましたし、仕事(自営)でしたので相当疲れました。

その時の苦労と、依頼者の親に対しての思いやりや愛情を感じて 、私が祈り按手したハンカチを送りました。

遠方なので、直截祈れたらよいのですが、中々、思うようには出かけられませんので、私自身の代理として祈りのハンカチを送りました。

昨日。確認をしましたら、 肺気腫のために、タンや咳がひどかったのに、落ち着き始めた・・変化が在ったのです。 小さな始まりに対しても、大きな期待と感謝を捧げることは、癒やしの完成にはとても重要なことの行為です。

キリスト、助け手の主 聖霊様に感謝!! 讃美を献げました。


この方の肉親は、未だキリストを信じて居ませんでした。 しかし、依頼者ご本人がクリスチャンですから、直接。神様に祈りとりなすことも出来ます。  親がクリスチャンでないので、ハンカチを身に付け祈りかを心配なさっておられました。しかし、私は心配や恐れよりは、優先すべきな、聖霊の助けを信頼することだとお伝えしました。

送られたハンカチを、悪い胸に充てて祈る理由も伝えるように勧めました。キリストの血からの癒やしが有るように祈られたハンカチで在る事。 依頼者の親を思う愛情を込めて渡すように共お伝えしました。
この場合は、強制は駄目?? 拒否された場合は、そ〜〜と寝ている枕や布団に偲ばせてもよいのです。

聖霊様が働きやすい環境。聖霊様を歓迎する祈りを捧げることが重要です。
もちろん、ハンカチそのものよりは、私たちが祈り会う。親を思う気持ちに、神様がお答えに成ると信じて居ます。


神様に強い期待と信頼。祈りと感謝の讃美を、一番喜ばれるのは父なる神。三位一体の神様です。

主に栄光が在りますように。
 
戦後から昭和40年頃。よくテントを張って伝道集会がおこなわれていました。 既存の教会でも、伝道集会と名を打った物が近年少ないですね。

癒やしの伝道も日本では、最近 聞かなくなりました。  癒やされても、教会につながらないからだと・・そんな理由も聞かれます。 イエス様も癒やしの伝道をなさいました。 癒やされても、教会(シナゴーグ)につながる人は当時でも少なかったと聖書に記録されています。 それでもイエス様は3年半の伝道期間には大勢を癒やされました。

今度の5月の連休には、神戸では大きな集会が介さされます。 キリストの元に一緒に集まろう! が テーマの
一緒 ーTogether から ギャザリングと名付けられた集会です、全国からのクリスチャンが集まることが出来るように祈っています。

ご参加下さい。詳しくはこちら 神戸ギャザリング

                       
10015086_617054595031130_2300861555619071095_n


私たちは病気になれば、癒やされ元気になりたいです。 けれど神の国、義を求める事を優先するならば、救われる事が第一です。救われた人が多いならば、神の国の栄光が高められます。

神の国を求める事が第一です。その結果。神の義の一つで在る癒やしが、私たちに与えられると信じます。 
癒やされる時期は、神様によって一番良いときに必ずあります。神にとっての栄光を表すためのベストタイミングです。 

貴方の教会で、救いと癒やしの為に 集会をなさる場合。ご連絡を下さい。
このブログ脇の欄になるメール欄から、ご連絡を御願いいたします。
個人的なご相談、霊的カウセリングのご相談もお受けいたします。私個人への謝礼は一切不要です。 

神からの恵みを直接、受けた結果。聖霊に導かれた時だけで良いと思います。あなたの所属教会優先でも在ります。


また、聖霊さまから、御声を聞かれた方からの宣教協力献金は感謝してお受けいたします。
聖霊様からの促しの無い方は、ご遠慮下さい。

この記事、ブログを読まれた方々に、神からの祝福、恵み。 そして、救いと癒やしが在りますように。


 

前記。賜物は教会を通して働きますと書きました。

色々の賜物は、個人にと言うよりは、教会のために、個人が働く役割として用いられるために与えられます。

タレントとはひと味違うかも知れません。例えば音楽。讃美歌演奏。担当する楽器は日ごとの訓練が基本です。
歌う人もボイストレーニングが必要です。その日々の積み重ねの訓練に、聖霊が働き、本人さえも驚く結果になったり、聞いた人が深い感動に導かれると、それは賜物となります。

通りの良い管に徹しようとする人で、関心ある分野に聖霊が働かれるときには、タレント性も霊的な賜物となります。

image

日本語では何か?神から個人に頂いた個人所有になった感じ方をしやすい 受けやすいですが、個人の霊を通じて、流れる神の力です。源流の神を忘れると大きな過ちを犯します。

預言、異言。解き明かし 癒やし 教師 霊的な賜物も当然あります。
ダビデは国を治める霊的な力と祭司としての賜物を頂きました。 聖霊を悲しませる罪を犯したときに・・

ダビデも、過ちを犯したときに、悔い改めの祈りをしています。
詩 51:11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
ダビデの熱心な祈りに神は答えられました。

また 無関心な分野とか、求めていない分野には、父なる神は働かれません。
ダン部族オホリアブは、人に教える事が元々熱心だったので、神は彼を選びました。

出 35:34 また、彼の心に人を教える力を授けられた。彼とダン部族のアヒサマクの子オホリアブとに、そうされた。

賜物は聖霊の力、働きの分野でも在り、私たちの祈りと練達によって生まれます。

神の一方的な力。聖霊に満たされること。聖霊のバブテスマは、信じて切に求める人に与えられます。
 
ルカ1:13  『してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。』と
主キリストは語られました。

聖霊はあらゆる面でキリストにつながるように思いを変えて下さいます。 
聖霊は、私たちの助け手です。

ヨハネ 14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます
image


復活後にそれが実現いたしました。 
 
 ヨハネ20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』
これはキリストが復活後に、12弟子数名に与えられた時です。その後に天に登られました。

それから 暫くして、
使徒2:1 〜4 五旬節の日(ペンテコステの日)になって、みなが一つ所に集まっていた。(祈っていた)
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

異言をもたらして聖霊のバプテスマがありました。異言は賜物の一つとして数えられています。

第一コリント12:8 〜10  ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、 ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

色々の働きを伴う、聖霊の働きがあります。また各個人の人間性を高める力添えもあります。

ガラテア 5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

御霊はキリストを思い起こさせる働きがあります。
ヨハネ14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

あなたが、キリストを宣べ伝えるときに、助けて下さいます。

ルカ12:11 〜12 また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。 言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。

 使徒1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

聖霊のバプテスマ特徴は、異言が在る事です。
切望して祈ること、『 聖霊を受けなさい。 』とイエス様が語られました。ヨハネ20:22 切望して祈っていると
聖霊が下りました。 

 使 4:31 彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。


聖霊、異言は附与される。 異言を語る方の按手によって、会場の祈りによって聖霊のバブテスマがある。

使途 8:15〜16  ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。

 使途 8:17 ふたりが彼らの上に手を置く(按手)と、彼らは聖霊を受けた。
 

 私たちは聖霊を宿すことが出来る。
 第一コリント  6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

伝道する力の元と成る聖霊の力

 
使途 1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

私の母は88歳で洗礼を受けました。 何しろ高齢だからと聖霊のバブテスマの説明はしていませんでした。 ある日。讃美して楽しそうに歌っていたら、急に変な言葉が出てくると困惑しながらも、涙を流して、私に伝えました。 変な言葉、まさに異言でした。 感謝と讃美によっても、聖霊様が、母に異言を与えた例です。

内住の聖霊があるから不要だろ明言はしないで下さい。神はその意のままに動かれます。
そして異言を伴う聖霊のバブテスマを求める人にはお与えになります。そして、あなたが願う賜物を生かして下さいます。

異言不要説はないのです。

エペソ4:29 〜32  悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。
 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。

上記の事柄も聖霊の助け 満たし無しには出来ませんね。

 
このブログを読まれた方々に 聖霊の助け 異言。 通りの良い管としての 豊かな賜物がありますようにと祈ります。

賜物は教会の徳を高めるために。(セッションNo2)

私の賜物の活用。 癒やしの祈りの出発点。

教会で賜物を活用するために。求めるには、聖霊様の助け、歓迎することを避けては通れないのです。

最初に、私は賜物をと言う意識からでは無く、母の癒やしを求めたことからが始まりました。
母は、アルツハイマー型、痴呆症の記憶喪失に成り廃人同様でした。当時の私の牧師に癒やしの祈りを依頼しました。1度は病院に来て頂きました際に、牧師は私にこの様に告げました。「お母さんはもう死んでいる。」と一言。
( 癒やしのメッセージは余りなさらない牧師先生でした。)

image


この一言が他人任せに祈ったら駄目だと、私の心に火を付けました。
そこで、自ら色々の癒やしに関するあらゆる文献を調べました。またそれまでは読んだことの無いクリスチャン関係の本屋雑誌を読み始めました。 過去の自分は余り聖書も読まず、牧師のメッセージ後もそのまま。噛み砕くこと、再度、聖書を調べることもしていませんでした。

キリスト教書店で、癒やし関係の本が沢山出版されていたことのも驚きました。牧師から聞いた事が無かったからです。出筆者にもお目通りをしたいと願いました。パソコンの普及していない頃でした。クリスチャン新聞の告知欄から、主筆者のセミナー開催を知って出かけるようになりました。
使途行伝時代で終わったのでは無く、現代においても、賜物が在り各自に当てられて意分野が在る事をも知りました。(所属していた教会では、使途の時代の特徴として教えられていましたからです。)

信仰のセミターで、母のこと伝えたときに、牧師からは
使途 16:31「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と個人的に祈られたときに、この聖書のことはを引用されました。

使途 16:31
の言葉が、まるで、神が耳元で囁いたかのように。私の心でインパクト在る生きた言葉と変わりました。まさに神のロゴスからレーマに変わりました。普段方知っていた言葉が、牧師先生から、私のために祈られたときに使用された言葉がレーマのようになりました。

ロゴスとレーマは同じ聖書の言葉です。

微妙な違いはより親密に、生きた言葉として心に入って来た言葉とも言いましょうか?日本語に訳すと同じ言葉となります。過去形 ロゴス。現在形 レーマの使用の違いです。
聖書を読んだり聞いたりしたときに、聖書の言葉が、格別心に残るときがありませんか?強いて言うならそのことがレーマと表現するば場合もあります。しかし元々は過去形表現と現在形表現の違いですけれど・・ 
深い意味合いの含みを持たせないで、聖書の言葉の意味をダイレクトに受け取れば良いと思います。
適当に開いた聖書から・・そんなレーマは無意味に近いです。

ローマ10:9〜10 ぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

第一コリント12;3 また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。

母は食べる事、息子の私の顔も分からない状態で、信じた証しの告白、母はそれが出来ませんでした。
全く現実的には、絶望的でした。「御心なら癒やされ、救われるように。洗礼が受けられるように。御心なら癒やされますように。と祈りました。

 格別の変化の無い月日は流れました。半分はあきらめの気持が多かったです。 ただそのように祈る時、かすかな反応、私の声にかすかに反応しているかのように思えたときもありました。意識が無くても霊は生きていると母と楽しかったときの話しを語りかけてはいましたが・・。
 
ある日、この言葉は目にとまりました。 

マルコ 9:21 ー 24 イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。」

マルコ 9:23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

 また、ヨハネ 19:28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。

イエス様が関せ町、完成した居るのだと再認識して悔い改めました。大胆に祈ろうと 御願いしようと決意しました。御言葉に従って、3日断食をしました。 そして3日後に病院に出向きますと、看護師さんとたちが私の顔を見るなり、『大変なのよ』と声を掛けてきました。病室に入ると母は正座して『今まで何処にいっていた?』 一瞬 何が起きたのか分かりませんでした。『エッ?母さん!僕が分かるの?』と言うと 『何言ってるのだ・!?』と怒りました。  まるで、レギオンが出ていった後。 正気に戻ったようにかんじました。

記憶が回復するまで3年半掛かりました。信じて良かったです。
その後 寝たきりで歩けなかった母が、 ある集会で祈られて時に、急に歩けるようにもなりました。使用して居た杖はその時から使わなくなりました。 その後、母は洗礼を受けました。
神に栄光がありますように。

神は信じる者には、その栄光を表すお方だと確信することが出来ました。
 
マルコ 9:23ー 24 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」 

末期癌の癒やし 現実的に不可能でも祈り求める姿勢 
 マルコ 9:23ー 24 

知人の奥さんが末期癌で入院したこと知り、お見舞いにいきました。腹水で妊婦のように膨らんでいましたし、あと1週間の命だと、医師からの診断でした。癌の痛みで辛そうでした。ただ神の栄光が現れるように祈りました。
すると、急に笑い出して、私は驚きました。 奥さんは 『 祈られたら急に楽しくなって、身体が熱い。』と全身で笑い始めました。 付き添いしていた友人もビックリ 当然 わたしも・・  私が帰った後も、よく笑っていたようです。 

腹水は注射器で吸い取っていたのですが、その注射無しで、翌朝には全部無くなり、医師が驚いて居たそうです。 余命、1週間だったのが、元気に退院するまでになりました。 退院後に、福音を伝えられてキリストに導かれました。奥さんはクリスチャンでした。 

肺気腫の癒やし。
海外で出会ったクリスチャンの義兄のために祈りを依頼されました。未信者さんでした。この方も余命3ヶ月でした。
聖書の内容、救いを説明し、「キリストに信頼すれば、癒やしもあります。」と伝えましたら快諾されましたので、祈りながら聖書を説明し癒やしを祈りました。 

この時には、エリヤが雨を降らせるために、7度 祈ったこと思い出して、異邦人に対しても恵みを祈りました。

第一列王18:44 七度目に彼は、「あれ。人の手のひらほどの小さな雲が海から上っています」と言った。それでエリヤは言った。「上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。』

 同じように、末期癌の祈りには1度だけしか祈らなかった事を悔い改める言葉にも成りました。何度も繰り返し恵み、癒やしが在るまで祈ろうと、私が導かれた言葉です。 3度目の訪問で、キリスト信じると告白。5度目に訪問で病床洗礼を受けられました。洗礼を受けた後に、困難と言われていた、肺に溜まっていた水が消え始めてました。
6度目の訪問では、肺に溜まっていた完全に水が消えてました。7度目は迎えること無く、退院をなさいました。余命3ヶ月でしたが、神様は、2年余りの延命をしました。 遠方でしたので頻繁には訪問できませんでしたが、電話で祈り励ましていました。

 歩けない人の為に。
宮古島の教会を紹介されて行きますと 、怪我で1年以上寝たきりの方とで会いました。
キリストの救いと癒やしを説明してから励まして祈りました。「チョット、立ちませんか?」 『いや出来ません。』を繰り返し、聖霊様がその足に触れられるように懇願しました。 暫くしたら、『足が熱い!?』と言われたので確信を持ち、手を持って立たせました。 次第に手を指さなくても、その部屋を歩き始めて、私たちは抱き合って泣きながら神様を讃美感謝しました。

私は癌に
ある日の早朝。腹に激痛が、、。救急車を頼んで緊急入院しました。診断は胆石でした、手術のために更に検査すると胆管周辺に癌が見つかり失望しました。詳細は前記のブログにも書いてあります。
体長を整える数日間を過ごしている間に、神はその癌を消滅させて下さいました。詩編23から得た言葉『喩え死の影を歩むとも災いを恐れません。』を繰り返して神に信頼したいと祈りました。多くの人の加祷によって支えられました。

耳が聞こえない人。
神学校卒業後、クリスチャン新聞、リバイバル新聞に癒やしの働きを告知されました。
在る教会員が、それを見て個人的な依頼してきました。けれど教会に属しておられるならば、一旦、牧師と相談してから返事を御願いしました。受け入れられて、その教会出向き、礼拝メッセージ後に、全員に祈りました。 最初に新聞を見て、依頼してきたかたは 耳が聞こえるようになりました。

            

 
祝福の大きさは 教会の徳を高めるためです。個人的に引き受けていたら、教会全体の喜び、益にはならなかったと思います。耳が聞こえて、その教会全体が神の力と祝福を受け取りました。 

この事を知るまでには、反面教師の例もありました。 個人的に依頼されてノコノコ出向きましたら、その依頼者の牧師先生と病室で鉢合わせをした事があります。依頼者は、私が来る事を、牧師先生は伝えてはいませんでした。
その牧師先生とは心合わせて祈り事が出来ましたけれど、違和感が残りました。
何故だろうと色々考えながら祈りますと、霊的な領域を越えてはいけないこと 。霊的にわきまえること。聖霊は紳士的で在ることから、賜物は教会を通して働き、熱心に求める者に与えられることを再認識。聖書から教えられました。(前記のブログを参照してください。)

癒やし他の祈りは、神の栄光を表すやめに。治るとき、治らないときが在りますように。第一には人間側のベストなタイミングでは無く、神に取って最も栄光を表すときに答え叶えられます。

賜物は求める人が、感心持つ領域に働きます。
霊的な賜物、タラント性があります。預言など霊的な者 音楽、教師はタラント性に別れます。
此処のタラントが・・霊の賜物が個人的な物では無く、教会のためにあるのです。個々の賜物がつながって教会を立ち上げます。 賜物を用い個人のために喜ばせるものではありません。

ローマ 15:3 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。
第一コリント 12:31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

私は母の痴呆症から関心を持ち、癒やしを特に祈り始めました。祈り求めていく中。色々経験し学びました。
教会に仕えたいと、癒やしの集会の依頼を受けています。分け合って教会から離れた人の為にも祈っています。癒やしとカウンセリングをいたします。

 遠方の方には按手したハンカチ、手ぬぐいをお送りします。長血の病の女性目がイエス様のことに触れたならば・・ パウとの前掛けに触れたなら ・・その信仰から癒やされた例から・・遠方にはチョクチョクは出かけられない事情もありましtた。ハンカチに手を置いて願い込めて祈り送ったところ、目が見えるとか、心臓病がよく成ったなどの報告を聞いています。

祈りのハンカチは、按手の意味をご理解になれない方には、カウセリング後にご理解後にお贈りしています。

ご依頼は、このブログのメール欄から、またはfacebook 小栗龍男からのアクセスを御願いいたします。

癒やしは 十字架の上で亡くなって身代わりに成られるときに主は言われました。

「完了した!」 
ヨハ 19:28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。ここでの完了はイザヤ書「打たれた傷によって癒やされた」を意味します。

イザヤ 53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。


するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。
マルコ 9:23ー 24 このイエス様の言葉を何処まで現実として受け取っているかが問われます。

マルコ 9:23ー 24 この意味できるものかでは無く、御心が癒やしことです。 最大の癒やしは永遠の命だと言う事も認識して頂きたいです。 重い病気でも癒やされる。そのまま無くなったとしても永遠の癒やしがあります。出来るか?出来ないかはイエスさまは、私たちに問いかけています。重い尿器でも最後の最後まで諦めないこと。 癒やしは病人本人よりは、神の栄光のため出ることを認識して頂きたいです。その神の栄光が現れるためです。


主に信頼、その人は必ず守られること知って下さい。箴言29:25

処に書き切れない癒やしを見せて下さり経験させいた来ました
神様に感謝します。読んで下さった方が、神の御名を崇められますように。 

癒やしにリアルな関心を持って頂けると嬉しいです。
神学校で学んでいた頃に、治療費が払えずに、途中で終わっていた歯に、あるとき被り物が新しく出来ました。ある牧師に祈って頂いていたときです。信じられるかな? 

一時、この様な事が起きました。今ないのは、神様に聞いてみないとね。求める人が居ないからでしょうね。わたしに強い信仰が有ったとはおもえません! 子供の様に、あの人が経験したと聞いていた歯の癒しが欲しいと小さい願いを持ちました。ただそれだけでしたよ。

image
  口の中が熱いなと思っていたら 新しいかぶりものができていました
17年が過ぎました。

          このブログをご覧下さり感謝します。 祝福を祈ります。

 

このページのトップヘ