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心の風景、愛の聖書、福音と癒やしと日常から。ミカエル小栗

ミカエル小栗がつづる心の風景。聖書の福音は愛と救いと癒やし。日常の出来事の心の雑記帳風景ブログです。聖書に基づくカウセリング、祝福と救いと心の癒やしを祈ります。あなたの教会のメッセージ奉仕もします。ご依頼はメールにて!

2010年06月

 祈りが届かない、失望感は・・

あなたは祈っていますか…誰に祈っていますか?
天地の創造主であり、父なる神であリ、キリストにですか?
祈りが答えられなくて失望していませんか?

祈りは直ぐに出来て簡単だけど、答えがないときには
また理由を捜して難しくも考えます。どのように祈ればいいのか?
自分の心の悪を捜して、答えられない理由にもします。
年月を掛けても、答えられないときには、神と自分にさえも失望します。

答えを急ぎ 先に求めても、その答えが無く失望します。

けれど、答えより大切な事はその神との関係です。
あなたの神の距離はどれくらい近づいていますか?

神は、いつも私達に聞かれます。『あなたは何処にいるのか?』と
『あなたは何をしたのか?どうしているのか?何故なのか?』

これは、アダムに、聞かれた質問のことです。
同じように、アブラハムにも聞いておられます。
何処にいるのか><彼はメソポタミアのウルから呼ばれてカランまで来ました。

アブラハムが最終的な祝福を得るまで、数十年の年月を要した祈りもあります。
ダニエルの祈りにも、直ぐに答えがなかった。天でサタンの戦いがありました。
ダビデも嘆いています。
詩編22:2『わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。
夜も、私は黙っていられません。』

そのようなときには神はあなたに聞かれます。
『あなたは何をしたのか?どうしているのか?何故なのか?』を聞いては
そのたびに、毎回に答えと導きを出されています。答えを出す前には、
彼、アブラハムとその都度に、関係作りを大切にしている神がおられます。

神が願う方向へ、神が忍耐して導いています。
神のたてた救いの計画に合うように、アブラハムの人格の育成をしている。
時には失敗をしても・・神は『彼の盾』となっておられます。
彼の願望を叶えたようでも、イサクで試されたのは、神への信頼関係でした。

イエス様はあなたの苦しみを知って、天の父なる神の前でとりなしておられます。
山の裾野から、頂上を見上げても頂上の様子が分かりません。
登るには しんどくて、天候(世の風)の影響もあります。「そんなの祈っても無駄だよ。」と風が吹きます。
でも頂上からは、裾野の様子がよく見えます。
神は天からあなたを見つめているのです。

ヤコブ4:8『神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。
罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。』 
このヤコブ書の御言葉の前後にも、興味深い言葉が書かれています。

悲しみが喜びにかえる日が来ます。試練から解放される日が来ます。
その日を待ち望める原動力は神への信頼です。

ヤコブの4章には、幼子のように喜怒哀楽で、神様に訴え祈る事も勧めています。
悲しいときには悲しいと、辛い時には辛いと率直に訴えて祈る事を勧めています。
その間に答えられないように感じても、神はその間に答えを用意してくださっています。

あなたの病は霊的な囚われのようであっても、解放されてプリムの祭りを迎えます。
エステル9:22 『 自分たちの敵を除いて休みを得た日、悲しみが喜びに、
喪の日が祝日に変わった月として、祝宴と喜びの日、互いにごちそうを贈り、
貧しい者に贈り物をする日と定めるためであった。』

病になる前に成る前に、霊的に病の足がかりに、(囚われとなった原因)
なってしまったことからも解放されますように。
不摂生とか身体的な 神経的な疲労とか いろいろありますけれど・・

時が来ると花が咲くように、あなたの人生にも、花が咲きます。
あなたの人生は必ず祝されます。病んでいる人は、必ず癒やされます。 
神の御言葉に従う者への特権を受けます。

諦めないでください。父なる神の御心と言う、山に登っている途中ですから・

 山は人を傷つけない

 山の頂に登るとその山の全体が見える。
けれど、裾野からは、山の頂は見えない。

 山に登り、命を落とす人もいる。
けれど山は、人の命を奪わない。
登る人の計画が、その山の雄大さに合わなかっただけ・・

 神に祈る人がいる。
祈っての叶えられないと失望する人がいる。

 山の頂から、いや 天の頂からあなたを見ている。
あなたの夢を、癒しを あなたを見守り登りおえる日を
天の頂で待っておられる。

 神はあなたを見捨てはしない。
神の気持ちに合うその日。天の頂きに昇る日にあなたの願いを叶えられる。

 「主は倒れる者をみな 支え、かがんでいる者を みな 起こされます。」
詩編145:14

*********************
山の頂上からは、全体が見渡せますが、山の裾野からは頂上の様子が
分からないことと似ています。

神は天から、私達を、あなたを見守っています。 
天までの距離が遠いので、時には神に見放されているように感じ失望します。 
でも父なる神は十字架を通してあなたを見放さしてはいないのです。
たとえ過って罪を犯してさえも、あなたを見放さないのです。

神のと距離が遠いのは、神との人格的、人間関係が薄いことと似ています。

答えないと感じられる祈りによって、その関係も深まります。
喩え、無関係と思われる人からでも、何度も何度も、しつこく頼まれると
その人の願いに、耳を傾け始める事と似ていませんか?

今、生きて居る。

つまらない人生と思えても、 自分が罪深い人間と思えても。
明日ががない、死にたい。夢がないと思えても、今、生きて居る。

でも、今日は生きている。

私の祈りに答えがない。願っても答えられない。神に失望し
自分がする同じ過ち、失敗をくりかけし、自分自身に失望しても、
棄てきれない望み、希望もあり 今日は生きている

色々の社会のいじめ 不条理に遭遇にあっても生きて居る。
お前の考え方、行動は俺たちと違う、変だと言われいじめられる

けれど、ウジ虫の中では、蝶々のさなぎも形が違っている。
ウジ虫から見れば、気持ち悪いだろう。
明日、私は人生を変えられるだろか。
神がさなぎを蝶々の変えるように。

何故、私達は生きてるのだろうか
その訳は何だろう。誰かが、私に教えてくれるのだろうか
その望みのために、明日、頑張ってみよう
羊飼いイエス。プラド美術館

神はあなたは私の目には高価で貴いと語ってくれたから<聖書イザヤ43;4>
神よ。あなたは、こんな私を愛して下さるのですか。
また 生きる目的を明かしてくれるのですね。

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光となりますように。<詩 119:105
私が歩くとき、私を導き、私が寝るとき、私を見守り、私が目ざめるとき、私に話しかけてください。<箴言6:22

私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる。
夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。
主は、私のたましいを、敵の挑戦から、平和のうちに贖い出してくださる。私と争う者が多いから。<詩編55:16〜18

平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。詩編4:8

私達は夢と希望と信仰と持とう。十字架の中にある天の諸々の祝福の故に<エペソ1:3
愛がないのならそれを求めれば 与えられる者だから・・
キリストが私達を愛して、油を注いで下さったのですから <詩編20:6

77a4a964.jpg  ホームレス伝道で、聖書からの説教

大阪西成の萩ノ茶屋の教会では、月曜日を除いて、毎日。キリストの言葉による伝道集会を開いています。毎回。メッセージをする担当牧師は変わります。今日は私の担当でした。集会後に、食事の提供があります。ホームレスの人々にはそれも楽しみの一つです。

ホームレスでない人、生活保護を受けている人も多い地域です。毎晩、説教を聞きに来て下さる方もいます。時々は、そのような方、向けの話もします。全くキリストの話を聞いて事のない方もいますが、今日は少し信仰が育つようにと話をしました。


 新約聖書 ルカ15:11〜24より

『またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。

彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。』


今日は上記の聖書の言葉から、お話をしたいと思います。そのたとえ話から、神ある父の姿と深い愛を描いているからです。 イエスはよく例え話をなさいました。
その一つです。

さて、既に話の筋はおわかりだと思いますが、ある資産家の家に二人の兄弟がいて、弟は父親の生存中に、その生前分与で財産の半分をとってしまいました。 また旅に出て、贅沢三昧を繰り返し財産を使い果たしました。困って生活を立て直そうとしました。彼にも立ち直ろうとする気力はあったのですが、悪いことには悪い事が重なりおきます。彼の旅先の国<この世、現世界>に、大変な飢饉がありました。要約、仕事を見つけたが、豚の世話係でした。豚はユダヤ人は決して触れてはならない動物でした。生活が苦しいので仕方が無く、タブーを犯しても仕事<望んでいなかったことの支配>に従事します。低賃金<心が貧しい生活>ですから、食べる事もままなりません。豚の餌を食べようと思いますが、それさえも食べれない状態になってしまいす。
<現世での欠乏貧困、霊的、肉体的にも。>

ここまでのストーリーの中には多くの教訓を、イエス様はなされています。
これはエデンの園の話でもあり、天国の話でもあります。
神は、初めにはエデンの園において、私達に、あらゆる祝福を備えておられたのです。前回。お話ししたように、天において諸々の祝福を備え用意しておられる神です。下記のエペソの言葉からです。

エペソ 1:3
『私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。』 案外その価値観は、人は抱かない、気がつかないです。限りない祝福です。ですが、神の存在を認識しての祝福です。霊的には絶えず神の側から離れるなら欠乏します。

 ここでも財産としての例えですので、欠乏したことをイエス様はなされました。
人は豊かさを一度知るならば、後戻りは出来ない性質がありますね。ここに登場する息子も、自分の手で「何とかしなくては」と方策を立てます。彼は豚の世話役を買って出ました。ブライドを棄て働きました。ここではユダヤ人であることを どうぞ。覚えてください。豚の飼育が悪いのではないのですから。誤解しないでください。
人の考え、力には限度があります。

単衣男物着物で説教

やもええず、その仕事に従事します。飢饉の最中でしたので、豚の餌さえも与えられない状態でした。人が働くには、食べるために働くのではないのですね。確かにそのこと含まれますが、仕事を通じて、自分の将来の夢。その実現の為に働き、頑張らなくては途中で疲れ気力が失います。例え高齢になっても働く人がいます。 その人には仕事従事しながら、果たしたい夢が在るから働けのです。 生活が目的ではなく、夢のために働くなら気力がもっと湧きます。 あなたの夢は何ですか?夢は必ず叶うのです。

 少し見方を変えましょう。

ここに登場する息子は父の元に返る決心をしながら、父親の元に返り、親にに謝る練習をしながら、その後の生活を計画し、彼の頭の中で、映像化、実現化をしています。子供としてではなく、奴隷のようになろう。そのほうが、現状の生活よりは増しだと考えました。

私達のも信仰生活を初めて、一人歩きを始めます。けれど、思いも掛けない出来事、信仰生活の中で信仰の飢饉に遭遇します。また突発的な事故や病、肉親の死、先の息子のように、頼った人からの無視。色々の状況下で痛手を覆います。誰も助けては見つかりません。

その時 あなたはどうするのでしょう。ふてくされますか?それでは本当の解決にはなりません。

エペソ 1:3の御言葉。『「天の諸々の祝福。」を思い出して、あなたの頭をフル回転させて、想像してください。想い描いてください。』それらを実際に手にした時の事を、告白感謝してください。そのことが実現したときのこと感謝してください。夢の先取り、生前分与と同じです。ここに登場する息子は、実際にどのように謝るかを練習しています。

彼は父親に、無理を言いました。父を敬うこと無く、自分の権利だけを主張しました。これは、十戒の中に『出エジプト20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。』から見るならば、父親を敬うことなく彼の罪でした。神の教えから離れると霊的な盲目になります。霊的な飢饉に遭います。

霊的な私達の父である神は、私達の帰りを、首を長くしつつ待ちまびていす。
父親は遠くから、息子の帰りを待ちわびていたことが書かれています。見つけると駆け寄り抱きしめて、私達を迎え入れてくれます。
神はあなたの帰りを待ちわびています。とてつもない大きな代価を支払ったからです。

放蕩三昧して息子は、父の元で、使用人、奴隷のようになっても祈りがつなげるならばよいと思って帰りました。しかし、父は息子の証しとして、指輪を、父の手からはずして、息子にあたえました。その指輪とは、印象が彫ってあるのですいわゆるハンコです。
奴隷としてではなく、正式な息子だからこそ、全ての財産を管理してる証しの指輪型ハンコを与えたのです。

私達には、それはキリストの命が支払われた命です。その命の代価で、あなたが救われているのです。

失っていた息子が帰り、歓迎の宴会で、牛が殺されて祝いがなされました。牛が殺されて犠牲になりました。 牛の犠牲は、私達の罪が許される証拠の形です。現代的に言うなら松阪牛 牛一頭分には、1千万近い値が付くときさえ在ります。、大変高価な価値があります。 これほどまでの歓迎、喜びが天において、あなた一人のために、神は用意してくださるのです。 その一歩は十字架を信じ、救いを信じ、父なる神の処に帰る決心からです。あなたに用意されるのは、天の諸々の祝福が手に入るのです。


あなたの人生を振り返って、豚の餌さえ食べよう・・何で考えるまで落ち込んではいませんが、一度の人生の中で夢が破れて何って無かったでしょうか? 私は信仰から離れ、神が無くても生きられると思ったことがあります。そのような生活を一事送りました。荒れたひどい生活でした。けれど、神の導きと哀れみによって、その後に神の声を聞き、再び信仰生活を始めました。 その祝福の差、神を意識して生活することと、しないことでは、歴然としていることが分かります。

どうぞ、キリストを信じて、あなたに用意されている、素晴らしい人生を掴んでください。未だ早くはないです。遅くもないです。今からでも大丈夫です。あなたの人生の限りある内に、あなたの夢が叶います。今日が、天の父の元に返る日です。決めるのはなたです。どうぞ。キリストを決心をしてください。

ヘブル3:13〜15
「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。

「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。

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 聖書を持たない人が多いので、聖書の言葉を映し出して、パワーポイントを使用していましたが、日曜日、教会で使用していたノートパソコンがとうとう壊れてしまいました。毎晩。ホームレス伝道の用の食事費用に経費がかかります。教会会計にいつも余裕がないです。いつもギリギリです。

貴方様が、仕えておられる教会優先で、かつ祈って下り、神キリストからの示しを受けましたら、 郵便振替 口座  00990−3−118496 名義名 ミカエル・ミニストリー  または、三井住友銀行 長田支店 普通口座 7518745 まで。献金をお願い申し上げます。 どうか。悔いののない献金をお願いいたします。

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 映画を見ました。

見応えのある映画でした。 アクション場面は 黒沢監督の用心棒からリメークされた荒野の用心棒張りのガンアクション サバイバルナイフの立ち回りは、座頭市を思わせました。

人類に残された最後の本を奪い、マインドコントロールしよう悪役と イーライ(主人公)ウオーカ<旅する人>の物語です。The book of Ely 原題はだったかな?
所々に 聖書の言葉は使われていました。余り映画のストーリーを話せないのが残念ですね。(話さない方が楽しみも増えますしね。)悪役の発想は怖いト思いました。 原題でも異端が増えていますので、人物の話すことよりモ、聖書を調べて知って欲しいですね。私も聖書ブログを書いているので、言葉の選び方には注意して、神の本意から外れないようにしなくてはと、肝に銘じました。

一途 本の価値を知り、それを正しく利用される人に導かれるという啓示に従って、西に向かって歩きつつけて、本を届ける主人公に感動共感しました。また映画の最後に語られた、パウロの遺言とも言える言葉が使用され 胸が熱くなるところがありました。多少。私は聖書の価値と言葉を知るからでしょう。
それは最後のシーンで語られたからかもしれません。

使徒行伝 20:24 『けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。』


 話はは飛びますが、ローマ郊外のピアッア街道沿いに、クオバデス教会があります。ローマに向かう道との分かれ道の所です。上記のパウロの言葉から思い出しました。

それはペテロが迫害がひどくてローマ伝道を諦めて、帰路につきました。そして、その街道の分かれ道まで来ました。するとイエスキリストは彼の前を横切ったのです。

ペテロは思わず、『クオバデス ドミネ。主よ。どちらへ。』と問うたところ、イエスは、『私はもう一度、ローマに殺されに行く。』とペテロに語ったと伝えられた場所があります。そのこと記念した、小さなチャペルが建っています。<
?クオバデス教会

私はそこへ、カタコンペ観光に合わせて行ったのですが、イエスの足形と言われる品(足跡=本物は別にしまってあると書いてありました。)が展示されていました。それに触れながら祈り始めたのですが、何故か気がつくと半日の間、泣きながら祈った事が在ります。キリストの愛の深さを実感した場所の一つです。イエスの福音を伝えたいと思った場所です。 その頃には、実際に牧師としての働きをすることは、そこまでは思いつてはいませんでした。

ペテロの逆さ十字架処刑






映画を見ながら、深くパウロの言葉を心に刻んでいました。そして、キリストの福音に生涯を掛けたいと思わせられました。

クリスチャンでなくても十分に楽しめる映画でした。お勧めです。やはり人類に最後に残される本を選ぶなら、聖書ですね。


私のブログにアクセスして下さった、青年と一緒だったので、映画館鑑賞後に、話し合いって余計に楽しめた。

 映画予告 URL  http://www.thewalker.jp/ 

 色々の問題と病の解決のために。聖書詩編17から

皆さんは聖書を読まれたことがありますか?

その中の詩編17から 祈りながら得た事を
皆さんにお話ししたいです。

けれど、外部ブログ ミカエル小栗の 今日のマナ
URL http://michaels-manna.spaces.live.com/blog/ に
アクセスをして下さい。

病のために。 問題可決のための祈り方、考え方を書きました。
是非ご覧下さい。

また関連していることも、問題解決の触れても書きました。
こちらは創世記21章から。アブラハムに経験です。
こちらも外部ブログに飛びます。

http://michael-ministry.no-blog.jp/bible/ にジャンプいたします。。
どうぞご覧下さい。

 賛美の力

あなたキリストに賛美していますか?
色々の問題、病の中では賛美はしにくいですね。

けれど、不安に心開かずに、主に賛美を捧げて下さい。
不安。争い、病に悩みの先に賛美で、神イエスをたたえてください。
賛美の中に主の軍勢がおられます。
あなた代わりに争いを可決、病を癒します。

?歴代20:17〜22
この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる【主】の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。【主】はあなたがたとともにいる。』」
20:18 それで、ヨシャパテは地にひれ伏した。ユダのすべての人々とエルサレムの住民も【主】の前にひれ伏して【主】を礼拝し、
20:19 ケハテ族、コラ族のレビ人たちが立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、【主】を賛美した。
20:20 こうして、彼らは翌朝早く、テコアの荒野へ出陣した。出陣のとき、ヨシャパテは立ち上がって言った。「ユダおよびエルサレムの住民よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたの神、【主】を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。」
20:21 それから、彼は民と相談し、【主】に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「【主】に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」
20:22 彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、【主】は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。

賛美はあなたの力となります。

いつもあなたの右には、主があられます。

喜んでいるとき。
悲しんでいるとき。
傷つけられているとき
怒っているとき
だまされ落し入れられたとき。

争っているとき
罪を犯しているとき。
悔い改めているとき
落ち込んだとき
失望しているとき
苦しみの時
病の時

それでもイエスは、あなたの神です。
昼も夜も・・あなたの神です。
あなたを支えておられる神です。
あなたの右にいて、救いの手をさしのべています。
少しだけ、渦中の中では、気がつきにくいだけです。

作、ミカエル小栗

問題が解決しない。 病が治らない。でも主イエスが、あなたの右におられます。

ある方は善意から慰めて、あなたには十字架の救い。永遠の命を持っているのだから大丈夫。
病。問題が可決しなくても、天国での廃案がありますからね。とあなたに囁きますが・・
その先にあ炉大きな恵みがありますよ。と囁きますが・・

求めよ 捜せ。 私は主。あなた癒やす神だと、イエス様はあなたに語っています。 
善意の人の忠告と主イエスの言葉の どちらかを選択しないといけません。

神は、天国だけの神ではない。 この地上においても神なのです。
今あなたの右に追われる神なのです。祈りにはタイムリミットはないのですから、
あなたが天国にに行くまで、諦めないで祈っても良いのですから。。

 ここ数日間の礼拝のメッセージをまとめて 

 このブログの姉妹ブログに掲載しました。

どうぞご覧下さい。http://blog.livedoor.jp/mickaels_mind-prophecy.soul/ です。

テーマは主の祈り 癒し 賛美です。

また癒しと預言のミニストリーのスライドショーも合わせてご覧下さい。それは下記をクリックして下さい。

http://www.digibook.net/d/6904abf78018b411b33afb233d224701/?viewerMode=fullWindow

 先日、直接メールにて、癒しの依頼がありました。

お手紙を拝見して、そのお返事を、私の癒しに対する思いをお手紙にしてから、
一部割愛して、この前回のブログで掲載しました。

癒しの祈りでは聖霊様の助けを必要とします。私達には父なる神への単純な信仰だと思います。私が返信したした内容は、下記の通りです。
hato
主の御名を賛美します。

詳細をお知らせ下さり、有難うございます。
覚えて、詳細に祈ります。この詳細がないと漠然としか祈れません。具体的に、神に祈り頼む必要があります。

あなたの体と、お子様のことも覚えます。
先週。タイのバンコックから来た、クリスチャンMr コモ・アンタゴンが
31年前に、やはり子供が落ちて、目が白くなり瀕死の状態になりました。

彼は、奥さんがクリスチャンでしたので、とっさに、教会につれて祈ってと叫んだそうです。途中でやはり、奥さんは病院に行くべきだと気持ちが変わりました。

けれど、今まで熱心なクリスチャンで無かった彼が、どうせ子供が、このまま死ぬなら、病院より教会だと、奥さんの願いを退けました。連れて行った教会の牧師は、それほどいやしの祈りには経験が在りませんでした。彼は牧師なら祈れると、子供を手渡しました。その牧師の意見よりも神を信じて祈りましたら5時間後に、子供が回復したそうです。その子供、長男も31歳と成って、私とも会いました。

それから、家にあった偶像を全て処分して神に仕えるようになったそうです。
信仰は単純です。疑わないことですね。信仰の経験や長さには正比例しないです。
癒しと救いは単純に信じるだけです。清く、正しい行いも関係ないです。
(聖潔、正しい行いは、悔い改めた後のクリスチャン実生活面では、神が導かれます。)
祈った通りになると祈り待つことです。聖書の記事には祈ったとしか書いてないですが、祈り続ける事も大切です。諦めたらあかん!! 長血の女は、確か13年でした。
イエスの祈りにはラザロ復活もありますよね。どれくらいの長さ、時間を墓の前に立たれたか書いてはありません。私達と違い、神の子イエスですから長い時間はかからなかった成ったでしょう。 癒しには色々のケースと信仰があります。

死んだサラの胎を復活させたのは、神です。
創世記 / 18章 14節
主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。
そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。

この言葉をいかに自分に当てはめて、適応させて期待と信頼。信じ続けるかです。
あなたの病のいやしも、お子様も、不可能はないと、神は宣言しておられます。

ですから、安心して下さい。 マイナス要因は、あなたの思考回路からはずして下さい。
韓国人クリスチャンが集まると祈りが始まり、日本人クリスチャンが集まると聖書研究が始まる。と言われます。祈り続けても、聖書研究し続けても結果は出ません。
神の語った言葉を信じて待つことです。 神は語った保証された言葉ですからね。信じなければ意味がない。この事が第一最優先です。前記の2つ例のこともクリスチャン生活には大切です。

詩編 / 130編 6節
わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。
イザヤ書 / 64章 3節
あなたを待つ者に計らってくださる方は/神よ、あなたのほかにはありません。
昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も/目に見た者もありません。

主は素晴らしいお方です。

所で、病の霊ですが、確かにその存在はあります。私達を混乱させ、神から引き離すためです。私のホームページにも書いてありますが、母の痴呆症の祈りの時に、少し関係しました。でも、全能の父なる神に祈りました。『父なる神を、母自身の口で、崇められるようにして下さい。病の霊がいることを聞きました。けれど、私は知りません。全能のあなたはご存知です。ですから、母から出て行くように命じて言って下さい。』 その三日後に、母の痴呆症が戻り、記憶が回復しました。病院内は大騒ぎでした。

悪霊追い出しも、時には必要なときもあります。
しかし、その経験で、霊は恐れるに足らず、恐れるべきは、父なる神だと言うことです。中には、『お前は、誰だ!?』なんで悪霊の名前を聞く方もいますが、そんなに手の込んだことしなくても父なる神に、幼子の心で、『父ちゃん、誰か知らない人が、僕をいじめて困らせるから、追い出してよ!』と頼めば良いだけです。

それと神への信頼、キリストの流された血の力には、打たれた傷によって癒す力には、隔たりがないことです。 あなたも癒されます。 

信仰優先ですが、その信仰を引き出す行動も大切です。
イエス様のはき出した唾で、泥を作り、目に塗りました。シロアム池で荒い落とすまでは目は見えませんでした。 その男は洗い落とすまでは、半信半疑であったと思います。何故。直ぐに見えるようにしないのかと・・・?

それは、イエス様の信仰を引き出す、医療行為ですね。私はこの事から、医師の手も必要な時もあります。 でも心の底には主への信頼と行動がいると・・

以前の教会で、心に傷を負ったようですね。大変ですね。その人たちも人の子ですから理解し合えないこともあります。けれど、神は十戒を通して隣人を愛するようにと命じられました。相手がどうであれ、許しととりなしの心で祝福してあげて下さい。
イエス様も十字架の上でとりなされました。 「彼らを許して下さい。何をしているのか分からないのです。』 そこですね。 分かっていたら、あなたを傷付けることはなかったのですよ。その人や、その教会のために、まずあなたから、とりなして祝福して上げて下さい。キリストは大祭司としてご自身の血を捧げて、罪の許しのために、私達をとりなしました。その後、祭司の勤め、とりなしを私達に託されました。

私も許すことは、そう簡単でないことを知っています。けれど、その気持ちを持つなら、私達の助け主、聖霊があなたを助けるようになります。祈り方も教えて下さいます。大きな祝福と幸せを、あなたに与えます。
ある聖書箇所では、神殿に向かって祈りに行く途中に、兄弟の何か罪を思い出したら、許してから出直すようにも言われています。自分の罪であるなら悔い改めてからですね。

ハンカチーフを贈ります。今、直ぐに、あなたの近くに行って手を置いて
祈っても良いのです。けれど、あなたの側に出かけて祈る代わりとして
私達が祈り合う証しとして贈ります。
体の患部に当てて、信仰持って祈って下さい。
 あなたの祝福、癒しを祈りつつ。
               主にありて。。
上記の、手紙を送りました。

同じ聖書からでも解釈注解はいろいろあります。中には癒しや聖霊は、使徒行伝の時代の特別な期間だけだったと言う教会は今も在ります。 私は始めて行った教会の宣教師から否定的な意見を聞きました。母や倒れたときに、牧師から、『もうお母さんは死んでるよ、』と病院に見舞いに来て聞きました。癒しを認めつつも積極的に取り組まない・・

聖書には信じたら救われ癒されると書いてあるのに。。それから色々の本を読み、各種の全国の集会に出席しました。聖書調べて読みました。読んだ調べて祈っても、特別な変化はなかったです。 何か宗教的になっても変化はないです。
全ての出来る方策はしてからも変化は無し・・わたしは漠然と無心になり、「僕の父ちゃんなら・・父ちゃん助けてよ。あんたは目で見えないから、分からんよ、見える形で、もっと父ちゃんである神様を知りたいよ〜〜』と思いました。

出エジプト記 / 10章 2節
わたしがエジプト人をどのようにあしらったか、どのようなしるしを行ったかをあなたが子孫に語り伝え、わたしが主であることをあなたたちが知るためである。」

最後には、あなたを知りたいから、御名を崇めたいですからと 『主の祈り」をしていました。それから、頭に手を置いて祈ったと聖書に書いてあったので、まねをしました。そレから3日後に、植物人間状態の母が記憶を戻して、歩けなかったのが歩けるようになりました。

列王記下 / 19章 19節
わたしたちの神、主よ、どうか今わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主なる神であることを知るに至らせてください。

 聖書をしらべて知る、心に据える事は、漠然と聞くに勝っています。知る事は信頼の始まり、信仰の始まりです。単純に祈りだけで、死人の蘇り以外の癒しを、神様は、私の祈りから沢山見せてくださいました。必要があるならいつかは、きっと・・
また、ヤコブのように、天使と相撲とって勝ち取った祝福のこともありますね。子供が親にせがみ頼む時の単純としつこさが要るでしょう。

このブログを読まれた方々が、もっともっと神様を知る事が出来ますようにと祈りつつ。神を知るには限界がないですから。           

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