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心の風景、愛の聖書、福音と癒やしと日常から。ミカエル小栗

ミカエル小栗がつづる心の風景。聖書の福音は愛と救いと癒やし。日常の出来事の心の雑記帳風景ブログです。聖書に基づくカウセリング、祝福と救いと心の癒やしを祈ります。あなたの教会のメッセージ奉仕もします。ご依頼はメールにて!

2010年05月

 何故?癒されないのですか?

私は癒しのことでも、一般的な祈りも含めて大切なことは、単純性 つまり幼子の心だと思います。
父親が約束してくれて事だから、信じて子供して待つ心です。

キリストを信じた者は、癒しは待たなくても、すでに完成されています。ただリアリティーがないだけです。このリアリティーが問題にもなりますね。日本人は遠慮が美徳とされますが、神の国では喜怒哀楽が大切です。

ゲセマネの園では、イエス様も父なる神に、これから起きることが避けられるように恐れと悲しみに襲われています。汗を流しなき苦しまれた。けれどその後に起きた出来事。この十字架のうたれた傷で、私達は癒されたのです。

癒しには、とりなしの祈りも大切です。あなたのために力つける祈り手、助け手が必要です。祈り手を見つけて下さい。祭司の勤めの一つには、とりなしの祈りがありました。大祭司であるキリストは十字架の上で、最後の大祭司と成られて、そのご自身の血を契約の箱に注がれました。

これらは、紛れもない事実として受け取っています。

上記の事はあなたの所属する教会で、牧師先生。聖書からでも既にご存知だと思います。

ある方が車いすから立ち上がって歩きました。周りも驚いていました。もちろん祈った私自身もです。しばらくすると、周りの人たちは、その方に車いすを差し出したのです。その方を思う親切心です。目の前に起こったことが・・しばらくしたら 架空に起きた事となってしまったのです。その後は、再び車いす生活を、一時は立ち上がった本人も受け入れてのです。立ち上がったことも、偶然だったと・・

またある方は、杖無しは歩けませんでした。メッセージ祝福を聞いて信仰が芽生えて杖を放して歩き始めました。確かに、よろめいて、おぼつかない足取りでしたが本人の了解で、私はその場で、杖を取り上げました。返しませんでした。周りも人も肩を出して支えていましたが、次第に元気に歩くようになりました。一時間もすると足に力が出てきたようで、歩き回って、神に賛美しつつ、涙を流しておられました。私も一緒に泣きました。

さてこの二つの例では、何処が違うのでしょうか?後者はのかたは、既に起きていないことを。。
よろめきつつ、おぼつかない足取りの中で、元気に歩けると言うことを信じて・・夢に描いて・・未だ完成されていない現実性を夢見たのです。元気に歩き回ってる自分の描いた信仰を・・描いている内に、本当のリアリティーがきました。

聖書には、娘が重病を患っている、父親がイエスの元にきました。彼が信じたときに、遠くに離れていた彼の娘が癒されました。 彼自身は、娘が治ったという現実は、彼自身が、自宅に戻ってから見たのです。

神は絶対に、あなたを諦めないお方です。安心をして下さい。
私には癒しの力はありません。通りよい管となりたくて祈っているに過ぎません。直すのは父なる神であり、イエスの血があなたをいやしています。リアリティー 現実性をもたらすために助けて下さるのは 聖霊様です。私達の助け主です。また注意点もあります。神が完全なお方であるように、神の癒しが完全です。しかし、前よりは良くなったので、そこで満足、妥協点を先に、私から先に提示してしまうことです。これくらいに治ればいいですと・・

あなたは、今どのような病がありますか?
復活した主の力が及ぶように、壊れている細胞に、イエス様の血潮、復活の力の十字架を背負って頂けるようにとりなして、私も祈ります。メールの相談を受けております。

さて、癒されて高らかに賛美している、あなた夢に描いて、その姿のご自身を受けれてくださいね。

パウロの前掛けに触れた時に、その信仰で癒されてと聖書に書いてあるので、祈りを込めて手ぬぐい、ハンカチーフをお送りできます。手ぬぐい、ハンカチーフ自体には、癒しの力はないです。でも互いに祈り会う証しの形としてお送りします。 主は共に祈り会う事・・隣人を愛し合うことには、敏感に答えられます。
手ぬぐい、ハンカチーフを通してとりなし会う事で、以前、お送りした肺気腫始め癌の改善など、色々癒され経過もあります。信仰を保持して下さるなら、住所を教えて下さい。でもその前にメールでのご相談を受けております。

賛美は力です。歌えなくても賛美の言葉、褒め言葉でも力になります。褒め言葉にリズムがついたことが賛美歌ですから、あなたが今まで受けた恵みを通して、神にもめ言葉をお贈りしてください。ヘブル13:15 エペソ5:19−20 少しでも回復があるなら、賛美して良くなった視点で考え
賛美して下さい。悪くなって、良くなっていない視点から、神を見ているなら不満、不安だけが口にでます。

9年前に、私が初期ではありましたが、癌になりました。何故ですか?主よ!不安と不満。死の恐れがで一杯になりました。祈り元気も失いました。気晴らしに賛美歌を聴いていました。その中で、ダビデの詩編23 例え「死の谷」を歩む事があっても、災いを恐れないと書かれていたことを思い出しました。その谷=現実の先には、緑の牧場=永安と癒しが在るのだと確信して、詩編繰り返し読み上げていました。詩編も賛美です。そして現実から遠く離れていた癒しが、次第に遠くから私にやってきました。その後の癌再発は消えました。賛美は力です。神に褒め言葉を捧げましょう。

大切なこともあります、今の現状の十字架を背負うことです。その現状を通して主の働きや、愛が見えます。あなたが十字架を背負っていいないなら、癒しが遅れることもあります。

約束の遅れも、時には自分を見つめるためには、よい結果をもたらします。アブラハムを思い出して下さい。
イサクが与えられるまで20年以上の年月がかかりました。神が約束なさっていたにもかかわらず・・そして、その約束が、要約実行さています。それでもその間は、神は、『私はなたの盾である、』には、変わりなかったのです。

もう一つには、私達にはアブラハムとの大きな違いがあります。イエス様の十字架によって、完成されていることです。アブラハムの時代にはなかったことです。

あなたは医師の手の中にありますか?イエス様も医療行為に似たことをなさっています。目に泥を塗ったことです。その場では癒さないで、シロアムの池で、泥を落としたときに目が癒されました。その間、多分彼は半信半疑だったのでは・・?何で?すぐに直してくれないのだろうかと・・

私はこう思います。 医療行為も受けるが、信仰が優先だと・・癒しには色々の形も有ると思う。いかなる場合も、主は癒し主であり、愛を示されるお方であると。。示される愛の形が多数有るのだと・・人の数だけの愛の感じ方、愛の受け取り方が違うからだと・・ 神は私達個人個人に対応して下さいます。 『あなたは、私の目には高価で尊い。』と個人個人に、向けて語って下さる神です。イエス様です。

あなたが、神の愛と癒しをを受け取れるベストを尽くして下さるからです。私達人地一人に対して・・最善を尽くして下さる、愛を示して下さるからです。

あなたのために祈ります。  主にありて・・

聖書マタイ。16:24〜26     (同じ記事は、http://blog.livedoor.jp/mickaels_mind-prophecy.soul/archives/50135677.htmlとリンクしています。)

『誰でも、私についてきたいと思うなら、自分をすてて自分の十字架を背負い、私についてきなさい。 命を救おうとする者は俺を失い、私のために命を失う者はそれを見いだすのです。人は喩え全世界を手に入れても、真の命を損じるなら何の特があるでしょう。その命を買い戻すたには、人は一体何を差し出せばようのでしょう。」

上記の聖書から
今日は十字架について話をしたいと思います。 キリスト教会と言えば十字架がシンボルとして使われています。元々十字架はローマ時代に処刑される罪人の死刑の道具として罪の重い者が処刑される道具でした。ユダヤの国、現在のイスラエルはローマの植民地でしたので、ユダヤ人の人権地位は無いに等しく、半分奴隷のように扱われている時代でもありました。少しでもローマ軍に逆らうならば、思い罪状を課せられてむち打ちの刑や、十字架で死刑にされていました。 十字架の処刑を言い渡されると、始めにローマの裁判所から十字架を背負わされ市内を引き回されます 処刑場に着いたなら、木で組まれた十字架に手と足に太い釘を刺します。それから十字架に掛けて体重がその釘にのしかかるようにします。それから、罪人と成った本人が息を引き取るまでそのまま放置されるのです。大変な苦痛が伴う処刑でした。

その非道な刑のことは、主のご存知でした。イエス様もそのような残忍なローマ軍の刑を見ておられたと思います。十字架にかかる前に。『人の子は死ななくていけない。』と語られていたことをお思い出します。ユダヤの国は植民地ではありましたが、一応形だけの自主権もありましたので、ユダヤ人を裁く、ユダヤ人の律法もありました。その多くの基本はモーゼの律法でした。

その中にエホバを神とし、それ以外に神があってはならないと一説があります。それがユダヤの法律の基本と成っていました。イエス様は自分のことを『神の子です。』と語っていましたが、イエスを神のこと認めない人もいました。素晴らしい奇跡も認めず、悪い霊によって奇跡をしたと思って、神の子としてのメッセージを受け入れなかった人がいました。私達が住む現代になった今も、イエス様を神のこと認めたくない人がいます。
イエス様も神の子ではないと認めない人々から、無理矢理に裁判に掛けられました。当時の歴史家のヨセフスも、イエスのことを記録しています。

使徒信条でよく言いますが、ポンテオ・ピラトとは、ローマ軍のイスラエル領地支配大臣総督者でした。イエスのことを書き記した4つの福音書に、イエス様の十字架に付けらる場面は統べた書かれてあります。認めたくない人々からの濡れ衣の罪、強引かつ無理矢理の罪状で死刑を言いつけられ、十字架を背負い、処刑場まで歩かれました。イエス様が刑場に向かった道筋は、悲しみの道として、今もエルサレムに残っています。


所で何故イエスは十字架を背負うことを、私達に要求なさったのでしょう。

自分の命を救うために、金銭で買い取ったとしても、無意味だとも言われました。罪人と成った人が、死刑としてもっとも非道な十字架にかからないようにするためにはどうすれば良かったのでしょう。一つはユダヤ人であることを止めて、ローマ人になれば、その刑は免れました。しかしユダヤ人でありながら、ローマ市民権を得るには莫大な財産を、ローマに差し出なければ成りませんでした。冒頭の全世界を手に入れていたのが、世界を支配していたローマでした。

ローマは歴史の好きな人であれば。当時の勢力は世界にと言って良いほどに、ヨーロッパから北アフリカ。中東の一部に及んでいました。しかし天国をイエス様は念頭に置いて話されました。一時的な命を得たとしても、天国の命を失う方がもっと悲しいことであり、また永遠の命は、地上の命に勝る事も言われました。

また、イエス様を信じる者は死に至るまで忠実であって、神の国を受け継ぐことが出来ると語ってもおられます。神の定めた道に、救いの方法。献身に従わないなら、本当の生きる意味がないとかたられました。 聖書、ヨハネ黙示禄2:10節にも 『キリストを信じて死に至るまで忠実で在りなさい。」と語られています。

 この教会に何度もきておられる皆様は、十字架は、私達の罪を身代わり背負ってイエスが亡くなったと聞いておられると思います。 何故なら罪の結果は、死を持って償う必要があることは神の法律で決められています。 神の法律に背いた結果、代償は永遠の捌きです。最後の審判から逃れるために、私達の身代わりになったイエス・キリストをただ心で信じて口で告白して、過去を悔い改めで救われるのです。ユダヤ人が、エジプトを脱出してから、神に逆らった時期がありました。その時に捌きとして毒蛇が彼らを襲いました。その蛇の毒に噛まれたときに、モーゼの作った青銅の蛇を、旗竿の上につけて高く掲げました。彼らを噛んだ蛇、つまり自らの罪を認めて、それを見た者だけが癒されて、信じて見上げなかった者は、神の裁きとして死んでしまいました。モーゼ作った青銅の蛇を見上げて、神に逆らった罪を認めるだけだったのです。旗竿・・十字架が、あなたの身代わりであったとただ信じるだけで良いのです。クリスチャンになる旗竿の先を見上げる良いのです。(荒野の青銅蛇 民数記21:4−9)

昔は、罪をかした者は、自分の身代わりの羊の頭に、祭司が手置いて、また片手で羊を持ってきた本人の頭に手を置いて祈りました。羊が私達の罪の身代わりと成って犠牲となり死にました。私達の身代わりの役目をし、死と救いの宣言をしました。その犠牲の羊を水で洗う旋盤も幕屋、神殿に用意されていました。これが水の洗礼。原型です。

信じて清い生活をするとか、正しいと思われる生活をすることも、一般的にも人としては大切です。 けれど、私達の生活環境が急に激変するとは限りません。信じたその日から激変して、私達は清い生活が出来るとは、聖書にも書いてありません。
あなたはあなた自身のままです。気を許すなら、悪い思い、怒り、人を裁く、不要な悪い情欲を持つ・・きりがないです。私達が信じたその日から変わって清い生活が出来ません。多分。死ぬまでの戦いです。それでも救われた神の子の身分が与えられています。この身分の故に、救われる事前に苦にも成らなかったこと。以前よりは罪の意識が与えられてきます。それがあなたの十字架です。それが神の子としての証しでもあります。

罪から離れる事。それは私達が選ぶ選択する事。決定する意志が必要です。

ギャンブルとか最初は少しだけと思っても、ついついと深みにはまった経験あります。人から受けた心の傷に悩むこともあります。逆に怒る続けることもあります。数えるなら・・きりがありません。急には変われないのが人なのです。けれど、それら全部を心に持たずに、人を、自分自身さえも許して、数々の問題と罪を十字架に付けるなら、私達の身は軽くなります。

キリストを、人生の主人として信じた者には、助け主としての聖霊が、あなたの心に来て下さいます。あなたに警告や忠告も静かに語り始めます。聖書を読むなら助け主の聖霊は、聖書の理解を助けて下さいます。けれど、同時にその声を無視も出来ることもできます。私達には自由からの選択権を、神が認められています。

人は、神の形に似せて、作られました。特徴は神と同じ性質の一つ。自由を与えられたのです。 自分の意志で守るか、守らないかを選択できる自由です。
自由意志で、エデンの園では、人は神を深い関係であり、人は神の友でした。
自由があるとは奴隷ではないです。約束事、契約なども強制されてではなく、自由意志によって決まられます。愛するために自由がありました。強制では本物の愛とは成りませんでした。 そこまでして下さったのですが。エデンの園では、その愛を守れなくなって、人は罪を犯してしまいました。罪の結果。死が来ました。エデンを追放もされました。

なんで?と・・アダムの罪が、あなたに関係ないとは思わないで下さい。
罪の性質、原罪はアダムを通して、全ての人間が受け継いで生きています。

あなたがイエスの十字架を見るなら、信じるなら、全ての罪が許されます。信じて祈るなら、病も癒されます。病は元々罪の結果、私達の命が縮めるために、病に成るからです。それまでは数百年生きたことが聖書には書いてあります。あまりにも罪が円満した時に、神は寿命を120年と定められました。キリストを信じたときには、一旦は眠りますが。永遠の命が与えられます。神は霊的な悪い関係からも解放されます。

あなたが人生の勝利者になる為には、諦めたら駄目です。 
神はあなたの人生を立ち上がらせるために、やり直しが出来るように救い出して下さいます。これには早い遅いはなく、また年齢も関係ないのです。今日。信じた。今日決意した日があなたの救い、人生の転換期になるのです。

神様は決してあなたを諦めません。あなたのために十字架にかかってまでも、あなたを愛して救いの手をさしのべて下さったのです。神はあなたの人生を知って御在られます。あなたの悲しみ。苦しみも知っておられます。
神の愛は無償です。無償故にあなたは高価尊い存在なのです。

此処である誌を紹介します。 原語は英語ですので、私的な訳で紹介します。
タイトルは足跡という詩です。

ある夜、私は夢を見た。それはイエス・キリストと共に海岸を歩いている夢だった。
その時。私の人生が走馬灯のように空を横切り駆け抜けた。
ふと見ると砂浜に二組の足跡があることに気がついた。ひとつは主のもの、そして、もうひとつは私のものだった。

しばらくあるいてから砂浜の上に残された足跡を振り返って見た。するとわたしが歩んできた人生の道のに、たったひとつの足跡しかないことに気がついた。そして私の人生で最も困難で悲しみに打ちひしがれている時の足跡が深く残されていた事にも気付いた。

私はこのこと思いだしひどく悩み、主に尋ねた。「主よ、かつて私があなたに従うと決心した時、あなたはどんな時も私とともに歩んでくださると約束されたではありませんか。でも私の人生で最も苦しかった時、ひとつの足跡しかありません。私が最もあなたを必要としていた時、どうしてあなたは私を置き去りにされたのですか?私には理解できません。」

主なる神は答えられた。「私の高価で尊い子よ、私はあなたを愛している。決して見捨てたりはしない。あなたが試練や苦しみの中にあった時、たった一つしか足跡がなかったのは、私があなたを背負って歩いていたからです。」

この詩は如何でしたか? 神と歩んだと思っていても・・また一人で人生
苦しみながらすごしてきたと思っていたとしても、振り返り孤独だと思っても、神があなたの側にいつも居て導いておられたのです。

聖書 申命記 7:6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされたと書いてあります。

キリストは私達を愛して、その死を持って買い取って下さり、神の裁きから逃れるための、永遠の命と人生が用意されているのです。

信じた者はキリストに買い取られ、神の子とされる特権が与えられるのです。
ヨハネの1:12には「この方を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子とされる特権をお与えになった。」と書かれています。

既に洗礼を受けられた方も、こらから、受けようとしておられる方も、 未だ迷っておられる方も、さらにイエス様に、近づいて あなたの人生の十字架。色々の問題。あなたの祈りと願いを、背負って歩いて下さる方と神であるイエス様に、あなたの人生の問題、重荷。あるいは病と言うあなたの十字架を背負って、イエスの身代わりに背負ってください。
 ドロローサ、刑場にむかう悲しみの道で、イエスの代わりに、十字架を背負って歩いた男、クレネ人シモンがいました。彼ののちにクリスチャンになったことが使徒行伝に書かれています。

あなたが背負って暫しの間、歩く十字架。全ての問題は、あなたが気がつく時には、神様はあなたの代わりに背負って下さった事に気がつくでしょう。

そしてイエス様があなたに新しく与える、クリスチャンをして生きる十字架を背負って下さるなら、あなたがさらに豊かにされます。そんな人生を歩んで頂きたいです。私達は、救われる前には考えもしなかったこと。罪の意識という十字架を背負い人生を歩みだすのです。イエスの信じ、悔い改めて許されたことへの感謝、賛美の生け贄、ヘブル13:15 それがあなたの背負う十字架です。 

 余談ですが、時々耳にする、いつになっても「許して下さい。」と祈り続ける方もいます。でも主の癒しと許しは完全です。何度も、さも許されていない。救われていないような許しを請う事。祈りつづける事は、個人的には変だと思っています。主が言われたように、『今日あなたは救われて、天国にいる。』と宣言しておられます。

救いと許しへの不安は持たなくても良いのです。むしろ、『父ちゃん、今日はね。こんな子としてしまったよ。、考えてしまったよ。ご免ねなさい。』との悔い改めの告白で良いのです。これは親子関係における信頼と許しです。親は何をしても、子供の悪さを許しますから、安心して、「ご免さない。」でよいのです。

現在。病という十字架、現実を背負っている方も、あなたの病のために身代わりになって十字架について、癒しの宣言をなさった、神の子イエスを見上げて下さい。彼の打たれた傷と流された血潮があなたをいやします。信じて、あなたの病を無くなって、十字架に付いているその病と回復しているあなたをイメージして下さい。元気になった姿を想い描いて賛美を始めて下さい。 賛美はあなたの力となります。

心臓の悪い子供がいます。移植手術で治ると聞いた親は、そのこのために命を懸けます。費用も莫大です。恥も外聞もなく、募金を頭を下げて頼む親がいます。最後の最後まで諦めないのです。
まして神であり、父である神は、あなたのためには、絶対に諦めないです。既に十字架にかかって死んで、あなたの身代わりと成って下さったのですから。   

キリストに在りまして、あなたに平安と祝福が豊かに在りますように

 五月は薔薇の季節ですね。

 昨日は、薔薇園に行きました。沢山の薔薇が咲いていましたよ。とてもきれいでした。
シャンソンには、「La Vie En Rose バラ色の人生」との歌もあります。素敵な薔薇に誘われた歌ですね。
エディト・ピアフの歌でも有名になりました。

訳詞です。

今すぐ、私を強く抱きしめてあなたがかけるその魔法 これはバラ色の人生そのものなの あなたが口付けてくれたら、天国がため息もらす、そして、目を閉じても私には見えるのバラ色の人生が・・

 
あなたが私を抱きしめると私は別世界に連れて行かれる。それは薔薇の花が咲き乱れる場所 そして、あなたが囁くと天使たちが歌を歌い始める。毎日の言葉たちがすべて、恋の歌に変わる

あなたの心と魂の全てを私に捧げてくれたら人生はいつもバラ色になるでしょう.....

オレンジ系の薔薇   あなたの恋はどのような恋でしょうか?あなたの愛は燃えていますか?

赤いバラのつぼみ

ミモザ 


 

 この黄色の花は、五月に昔 滞在していた地中沿岸には、この季節沢山さいました。少し懐かしかったです。淡い恋心の思い出と共に・・

   薔薇の花に寄せて、恋愛の言葉のスライドショーを作りました。ご覧下さい。
   最後まで、ご覧下さると嬉しいです。  
  
 薔薇の花を神様に捧げたいと思って作り恋歌賛歌です。
  
http://www.digibook.net/d/fcc5ed7f90d99a9c2d1e6991eb218611/?viewerMode=fullWindow

 フランクリン・グラハム集会の福音、インストラクター

 大阪北浜のあるVIPクラブでは、この秋に開催されるフランクリン・グラハム集会。その伝道集会に備えるインストラクター養成講座が開かれました。

 アメリカから数人のスタッフが、此処。VIPクラブのビルにある準備事務所で待機なさり、既に色々の働きをなさっておられます。 アメリカで一番信頼されておられるグラハム先生、伝道者です。

 福音を伝える事の重要性とその勧め方などを聖書から学びました。
また聖書を使用しての、インストラクターとしても学びもしました。

フランクリン・グラハム集会準備会1質疑応答と証しの時間がありました。講習の中でアンデレのように、私達が救いに導きたい方々を記名して祷り、主の前にお連れしましょうと呼びかけられました。

私は、大正時代の初めの頃。私の母が7歳の時にアメリカ人女性宣教師から祈られた事を証しして話しました。その宣教師は、既に亡くなりましたが、母が救われたのは、80年後の87歳の時に救われて洗礼を受けた事を証しをして、祷り覚える重傷性を証ししました。

イメージして祈る事も教えて下さったので、私のホームレス伝道から、福音を伝えている人々が、イエス様の福音の網にかかるようなイメージをしながら伝えていることと。先日30名近い方が洗礼を受けたことをお伝えして、イメージの祷りも大切ですね。と
証しをさせて頂きました。

グラハム退会準備会 2


 関西地区の教会の一致が大切だと思います。
私が参加した午後7時からの講習会には40名くらいの方が参加しておられました。

 ユニオン神学校で説教学を学びました。


 毎週、火曜日は、大阪のユニオン教会。神学校での学びです。
今日は、聖書説教の準備の仕方と、勧め方、話し方などを学びました。
韓国から東海青雲教会の金牧師が来て指導して下さいました。
人が理解できるような話し方、聖書の教訓の勧め方などを、実践しながら教えて下さいました。

 途中からは、私達にテーマを与えて下さり、そのように話すかも指導して下さいました。とても良かったです。

 大切な聖書の教えです。牧師がどのように解釈して伝えるかがポイントと成ります。また、その牧師の人格にミニストリー 主の働きも比例してきます。
そのように話し伝えるかが、とても重要です。

もっと聖書を学ばなくてはと決心しました。


金牧師

 日頃の感謝を形に表して、神に献金をします。

 日曜日の礼拝後、外に立ってあいさつを交わして、出席した皆さんを送り出します。その時に心が熱くなる話を聞きました。ある方が、今日は150円しか献金が出来なかったと言いました。彼は、彼に出来る精一杯を捧げたのです。

 本来。献金はイスラエルでは長い歴史の中で、土曜日を安息の日。神を礼拝する日としております。それは、天地創造の神が、全ての創造をおえられた週の終わりの日を休まれましたからです。その後、キリストが復活した曜日が日曜日でしたので、私達クリスチャンは、日曜日を礼拝する日となりました。その日を覚えて聖なる日としました。

 また神は、神の前に出るときには、収穫(収入の)十分の一を捧げるように、私達に命じられました。それまではアブラハムやヤコブに習って、自発的に感謝を形に表して、神に捧げていました。申命記14:22 神の命令、望まれる事として制定されました。集められた収穫物や、金や銀は、集められ共同社会の中で分配され、神殿に仕える人々。イスラエルの寄留者、孤児や寡婦らも満ち足りるようになるよう。神は図られました。
キリスト復活後に信じた私達クリスチャンも、神様に捧げるようになりました。

 キリスト復活した頃は、エルサレムに神殿がありました。使徒行伝の中にも献金をして、集められてエルサレムまで持っていきました。今日はその神殿がありませんので、現代教会に集められ、社会奉仕やキリストの栄光と教えを広げる宣教のために多くが使われております。神殿に仕えるレビ人の生活を支えるようにも、神は命じられました。現代では、レビ人に代わって教会で奉仕する人々の生活も支えるようになってきております。

 此処で、大切なことは、神への感謝を形に表し、その見返りとしての祝福の契約が、父なる神とあなたの間で成立する事です。もちろんそのことを信じて、捧げなければ、全くの意味をなしません。十分の一の捧げ物以外にも、感謝の捧げ物の種類があります。共通して入れることは、強いられてではなく、自発的な感謝を捧げることを神は喜ばれると言うことです。

 さて前置きが随分長くなりました。先日の洗礼式後に、初めての礼拝が行われました。

 礼拝後、出席者を送り出すときに、あるホームレスの方は、『牧師先生。今日は150円しか捧げられなかった。昨日。一生懸命。空き缶を集めて金に換えたら1500円になったんだ! 今度来るときには、もっと捧げられるように、祈って欲しい。』と言われました。私は、その話を聞いて胸が熱くなりました。彼は大阪市内を自転車で駆け回り、空き缶集めをしております。聖書の中にも、イエス様が金持ちと貧しい寡婦の献金のことを語っておられます。私達は、彼に聖書の話を伝え信じました。また祝福の一つとしての献金も、学院長であられる李柄鋪牧師が語り教えておられます。彼の、神の祝福を信じて実行したのです。 彼の祝福を心から、神様に祈りました。

 献金は神との祝福の契約です。祷りの答えを期待したり、叶えられた感謝とか、神の国の拡大のために、神の国、教会の必要のために、宣教のためにとか・・色々必要と祷りのために捧げます。 強いられたと感じ嫌々とか、見栄であったりは、神は喜ばれません。また一旦は捧げても、途中で心代わりをして惜しんでしまう方も、中にはおられます。それはむなしく、悲しいですね。 惜しんだりして、金銭にまつわるトラブルは、教会の中にもあることは事実です。トラブルくらいなら、捧げる前に、自己吟味をすれば、問題は可決されます。大切なのは、本人の心です。献金は神への献身と感謝の形でもあります。
 
 私自身の宣教活動含め、ホームレス伝道には、現実問題として宣教を続けるためには、献金が必要です。あなたの属しておられる教会を優先して下さり、また神様が、霊的にあなたに語られていると感じられたとき、祈られたときに、どうぞ、お捧げ下さい。またイスラエルの人々のために働いておられる、ミッション団体に捧げると霊的な祝福を受け取ることも出来ます。そして、神が契約して下さっておられる経済的。霊的な祝福を十分に受けられますように。と祈ります。

 『イエスは寡婦の捧げたレプタをご覧になられた。』 



web洗礼、聖餐式 046

 13日は、キリストの復活後。昇天記念日でした。

 私の関わっている、大阪の神学大学教会では、洗礼式が執り行われました。毎晩のようにホームレスの方々に福音を伝えております。職を求めてきたり、ホームレスになってしまった人たちが多い、大阪の西成地区です。
決心者を促してきましたが、定住者が少ないので、洗礼式は未だでした。 韓国からの牧師先生とその教会の賛美チーム、理容師さんが来て、散髪や風呂銭をわたして入浴もして頂きました。御祝いに下着の上下とスポーツウエア-の上下も、御祝いにプレゼントして下さいました。

13日にはその洗礼式が行われました。 神を賛美してダンスから始まりました。洗礼、聖餐式 002続いて牧師の祝辞と洗礼の意義の説明がありました。心暖まる祝いと励ましの言葉でした。w洗礼、聖餐式 009

神戸の金牧師も  祝辞を述べられ御祝いをなさいました。w洗礼、聖餐式 014 神戸の教会を苦労して立ち上げられた先生です。その教会を若い牧師先生に譲られて、私と同じように協力牧師を、この神学大学教会で教鞭を釣られ、伝道もしておられます。

web洗礼、聖餐式 033











洗礼の決心者は29名でした。一同が洗礼を受けられることは、私を含めてボランテアの一同も大変な喜びでした。過去の経歴は凄い人たちです。有能な仕事をしてきた方も追われます。キリスト信じて、再び人生を立ち上がろうとなさっています。どうぞ!祷り応援をして下さい。web洗礼、聖餐式 015 集団で29名の洗礼式は、私も初めてでした。とても感動しました。web洗礼、聖餐式 018 聖霊の導き許しがないと誰もキリストにであいません。この洗礼を受けられた方々が、キリストのであって信仰が増し加えられ、人生をやり直すことが出来ますようにと祈りました。この洗礼式のあとに、正餐式も続けて行われました。 前もって、このパンと杯は、キリストの信じた者が十字架にかかったキリストの引き裂かれた体と流された血の象徴ですと説明をしました。未だ洗礼を受けていない方々もこの式典を見ておられたからです。 キッチリと説明して、未信者のかたはご遠慮して下さるようにもお願いしました。

私にも、洗礼を授ける役目を、するように前日に申しされました。けれど、式服の持ち合わせがかなった物です。この正餐式の前の祷りの役目をしました。沢山の洗礼者を目に祷り始めると、感動して涙があふれました。web洗礼、聖餐式 024 感動しました。嬉しかったです。式典をとても大切になさる韓国の先生方の姿にも感銘を受けました。

この式典の後。食事の提供もなされました。 長い時間を耐えてくれましたね。腹が減っている人がいるのですけれど、説教が長いと文句を言い言う方も時にはおられます。普段は説教は30分なのですけれど・・


毎日のように炊きたてのご飯。これは皆さんが喜ばれます。それに、具沢山の味噌汁です。web洗礼、聖餐式 030
                                     

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これらは全て献金で賄われます。ほとんどが韓国の教会からです。皆様方も、日本人のクリスチャンのかた方にお願いします。神様から導かれましたら献金をお願いいたします。 属しておわれる教会に献金を捧げて下さり、その上で、祈って下さり、神からの促しがあったときには、お願い申し上げます。喜んで捧げて下さる方の上に、神からの大きな祝福と平安と恵みがありますように。

郵便振替 0099−3−118496 ネット、銀行からの振り込みですと、ゆうちょ銀行 北須磨支店 店番099 当座 0118496 名義はミカエルミニストリーです。ホームレス指定の記入をお願いいたします。

 追悼記念誌が届いていました。

 もう十日ほど前のことですけれど、改めに読み返しました。

昨年帰国し、亡くなられました。 アメリカ、アトランタ。邦人宣教に出かけておられました。高橋和子宣教師先生でした。

追悼誌
高橋先生に始めてお会いしたときは、1992年でした。高橋先生は当時、58歳でした。
私が田舎の富山の教会にいた頃のことでした。私も足かけ12年ほどの海外生活から帰国したばかりだったと思います。 海外に在住日本人にも アフリカにも、沢山の牧師が殉教した東ヨーロッパにも、献身し働き人の必要性を感じて帰国したばかりでした。

 高橋先生は、優しく柔和と言う言葉がぴったりのお方でした。私もその頃は未だ40歳代でしたので、おばあちゃんと呼ばれてもおかしくない年齢の婦人。高橋先生が、いまから・・60歳に手が届く年齢にも関わらず、USA滞在ビザの収得に奮闘して 邦人向けとは言え、この年齢で・・宣教師に・・!!驚きが先でした。 
また同時に頼もしくも思えて、先の私の感想、宣教働き人の必要を満たして下さることがとても嬉しく感じた次第です。

 わたしは、高橋先生に、『失礼ですが、どうしてアメリカに行かれるのですか?』と率直にお聞きしました。『実はね。アメリカに旅行して、聖書を読む会をしたら、神様は、私を捕らえられたのよ!』といとも簡単に、笑顔で答えられ、益々感動しました。
高橋先生jpg

翌日。東京に帰られる列車にぎりぎりに間に合い、失礼ながら献身を直接手渡す事が出来ました。その後。直接の連絡はあまり取らなかったのですが、お手紙が良く届きました。背後には、先生を心よく送り出され支えられた事務局のご努力も素晴らし待ったですね。東京町田の松見ヶ岡教丘の皆様です。良く支えておられました。

高橋先生4

 私も50歳になり、献身を考えている頃に、お手紙を出しました。最初は献身のことを相談する気持ちで書き始めたのですが、取りやめて挨拶状になってしまった記憶が在ります。高橋先生の年齢から、スタートした、宣教がとても祝されていると知って、私もいまからでも遅くないと意欲が湧いた・・思ったからです。 


それから、神学校に入学しました。その背後には、献身的に、私を支えて下さったお一人の兄弟の賜物で、3年間。学べました。そうそう、神学校在学中には、自筆のお手紙も頂きました。励まされましたね。

献身には年齢は関係ないと、改めて思っているます、でも支える方がいなかったら出来ないですね。
記念誌を読み返し、ご苦労も忍ばれますが、沢山の方々に愛されておられた先生でした。何となく気になる先生でした。アトランタから機会と場所のあるところ。喩え遠方 アメリカは広いですけれど・・邦人のために救いの為に働かれました。 昨年の夏に75歳で天に召されました。 

 ご病気だったのですが、私は知らなかったのです。しかし、その頃には良く、高橋先生とであった富山のことと高橋先生のことを、良く思い出して祈る事が出来た事も不思議ですね。何故かはわかりませんが・・あまりにも気になって、事務局にお訪ねしましたら、葬儀が終わったとお聞きして愕然としました。

その葬儀のDVDも頂きました。 また素敵な記念誌も頂きました。本当に愛された高橋先生でした。献身生活には支える方がいないとつぶれます。しかし、高橋先生も素晴らしい支えの献身的な事務局の皆様の存在もあります。何かと連絡をして下さいました。その事務局の皆様と牧師先生。教会に祝福を祈る次第です。 神と人に愛されないと、良き働きが出来ないな〜と思わせ考えさせて下さった先生でした。 神戸で開拓宣教を始めた頃に、カナダ、カルフォルニアに行く機会がありましたが、アトランタは遠かった?資金不足でした。重ね重ね残念です。でもこれ主のお心だったのかも知れませんね。ネットは世界に通じますね。天国にも通じると良いな〜〜

高橋先生!安らかに 主と共にお過ごし下さい。

 韓国から賛美ダンスチームが来ました。

 前記の徐明吉牧師先生の教会から、25名の賛美ダンスチームが来ました。
大阪西成のホームレス伝道のために、主婦の方々が家庭や教会の奉仕。仕事を休んで来て下さいました。
一つは13日にいままで宣教してきましたホームレスの方々に、決心をして信仰に入るように勧めてきました。けれど、洗礼が未だでした。路傍伝道
専門の賛美ダンスチームと一緒に理容師さんも数名来ておられ床屋を大勢の方々に無料でなさいました。

午前中の授業が終わり、職業紹介センターの中で  牧師が簡単なメッセージを話しダンスとと賛美をしました。路上の賛美ダンス 036
みんなは何事かと興味津々でした。


支援、韓国チーム 067始める前に真剣にに祈られる姿が美しいと思いました。めいめいの得意なダンスを始めると、周りから集まり、拍手が起きました。太鼓を叩き、扇子を広げて踊りながら神を賛美なさいました。何曲か踊る事に、場は和んできました。





路上 賛美ダンス 普段からこのような踊りを見ない環境です。このセンターの外側=夜にはシャッターが下りる。路上で寝ている方もおられます。韓国独特のリズムにイエス様を賛美する歌詞が歌われています。いまは韓流ブームとかで前に比べると親しみやすく、テレビでも見る機会が増えましたね。


                       ダンスを踊る1       最初は嫌がっていたけれど、和んで踊り出す方もいました。楽しそうでした。普段から異性とのとのふれ合いもない場所ですので、多分。心も和んでいると思います。


扇子の踊り


夕方5時半から賛美が始まります。


決心の応答 メッセージをした後に決心を促します。大勢の方が手を上げます。
ここまではいつもしているのですが、今回はさらに、洗礼を受けてキリスト信徒としての教えをする予定です。
この後には無料、温かいご飯。炊きたてご飯が食事として提供されます。


教会の韓国チーム 104
 昨日は雨も降り、200名ほどが集まりました。 中にはホームレスでなく。メッセージだけを聞きに来る方もおられます。このブログ記事をご覧下さって、ホームレスの方々に、あなたの夕食一膳分からを献金して下さると嬉しいです。25日間、食事を150人から200名分の食事を出しています。一月4回だけ休みますが、日曜日は昼夜の食事を出しています。皆様の温かい支援がないと続けられないです。大半以上は、こちらの学院長 李牧師先生が韓国に時々出向き、韓国の教会で説教奉仕をなさり、その謝礼のほとんどをホームレスの食費代に当てておられます。牧師の食べる普段の食事が驚くほど質素です。スタッフも、私も全くの無給ボランテアで運営がなされています。メッセージと献金をする責任も協力牧師として担っております。

食事提供12 あなたの教会に献金をなさっておられる中から、祈られて時に、神様があなたに語りかけて下さったときには、協力献金を宜しくお願いいたします。 

戦争中とはいえ、私達の先祖が韓国を踏みにじりました。いまはそれ以上に、キリストの愛に満ちて、私達日本人のホームレスの人々の支援をして下さり。また、教会成長、日本のリバイバル、魂のために、莫大な愛を注いで下さる韓国の教会に、主に在って感謝を捧げる次第です。

 昨日は、大阪ユニオン神学大学で幕屋を学びました。

ご存知のように、幕屋の内部には庭があります。この庭が教会になります。聖所と至聖所がキリストを表します。以前に学び、本も読んではいましたが、改めて見直すと、いまの私の現状と比べて悔い改めに導かれました。

 教えて頂いたのは、韓国の6千人教会。徐明吉牧師先生です。幕屋に精通した牧師先生でした。

沢山のことを学んで、なにから書いたら分からないほどです。けれど、整理してみて、私が学んで感じたことを言えば、・・ 徐明吉牧師 1

 出エジプト記を見るならば、幕屋の事が書かれてあります。東側のの門から入り、犠牲を捧げる庭に入ります。汚れを洗う洗盤で私達の日常の罪の汚れを洗います。洗礼です。流される獣の犠牲の血はキリストの血と十字架の形です。告白して、自己の罪を認めるなら罪が許されます。

 でもそこは未だ、幕内であっても外です。風も吹き雨も降ります。世間 世の中が見えます。雨も風も吹き、砂漠の熱い太陽にも照らされ、雨も降り星も見えます。色々の人の動きも気になります。救われて教会生活をしても試練や苦難、患難があることに似てます。外の幕屋の形や、文様にも意味があります。

 また、聖霊様にも触れられ、時には満たされることももあります。外の幕屋は、私達が第一に集まる所です。それは教会でもあります。多くの方々はここの場所で満足しているのが、日本の現状かも知れないです。講師の先生の信仰とにじみ出る人格、信仰を見て、ただ単純に思いました。さて聖霊の内住によって次の段階に進みます。

 次に進むところで聖所です。燭台の光だけで外部とは遮断されています。燭台の光はキリストです。<主の言葉は、私の足の灯。詩編の言葉より。>色々の道具があります。それにも意味があります。その道具を使い、神に仕えます。道具は私達の個性、人間性、信仰です。自分から動きもします。道具も使います。働き 求め 捜します。日々の備えの丸い形のパンがあります。丸い形は、エンドレス。永遠のキリストの体を裂きます。

 次に至聖所進むなら、ケルビム(羽を広げた天使)の間で、神が私達とで合います。さらに暗いところですが、神の栄光の光だけがあり、私達はだだ神だけを礼拝賛美するだけで、道具は使いません。自分からは何も出来ません。動いても行けません。自分からの願いの祈りも出来ません。神の命令通りにしか動けません。

 その命令とは、ただ神をを求め(神の国と義だけの世界)ます。ここでは完全に自己に死んで、キリストの命の中に生きる復活する世界です。ここに到達するなら、神は、私達の必要を満たされます。申命記に書いてあるように、神自ら約束して下さったように、神様のほうから、動いて下さり、神ご自身が語られた全てのことをして下さいます。神が私達への親交を深め、私達の霊性を整えさせて下さり、全てを豊かにさせてくださり、病もなく災いも遠ざけて下さいます。この至聖所で私達は三位一体の神と出会いをしなければならないのです。

 神の思いと違った動きをするならば、私達は神の怒りに触れて死にました。(主よ! 主!と言い、預言をし、善行をし、病を癒して来たではないですか?と言う者が救われるのではない。とイエス様が言われたこと同じ意味です。)

この至聖所でどれだけの方が、・私自身が神様と出会い交わっているのだろうか?と悔い改めためた日でした。

どうぞ、同じ神を礼拝をする私達です。私達も至聖所で、神と出会い相交わりませんか。今日。改めて幕屋を読み学んで悔い改めをしております。
幕屋

休憩中に話題になったホセアはキリストの形、神の命令によって遊女の女ゴメルを妻にします。
彼女は子供まで産みました。とんでもない名前の子供です。その後。ゴメルは罪を犯します。
そんな妻を、ホセア(キリスト)は許しました。 私自身も、この妻のように、何度もキリストから離れ遊び(クリスチャンになってからも)罪を犯し放蕩したこともあります。それでも、イエス様は、私を見捨てずに。私の主なる神となって下さいました。この深い父なる愛に献身したいと思い祈っています。

今日は特に幕屋を 聖書を、記述者の体験と彼の視線に立って読みました。神からの視線で聖書考えました。至聖所の出会いを神は求めておられることを、今日、再々の確認しました。

ケルビムの間で、神の臨在に触れられるときに、神からの一方的な恵みと祝福に預かれます。聖霊にも触れられます。癒しもあります。心、体、人生の癒しが、回復があります。 主の癒しは3種類があります。医療行為的な癒し=目に泥を塗る。私達の信仰を確かめ見てからの癒し。神からの哀れみと一方的な恵みの癒しの三つの方法です。それらを通じて完全な 心と体と人生の、信仰の癒しがあります。

キリストが十字架にかかられたときに、至聖所を仕切っていた幕が天から裂けました。神ご自身の方から、聖所へ出て来られました。聖霊が下る予表でもありました。大祭司しか入れなかった場所から出て下さり、私達の間にすんで下さり、私達の体を宮として下さることが凄いことです。 神様を期待し待ち望みつつ、主にありて… 小栗



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