信仰とは何ですか?具体的にはどんなものですか?
それは神への信頼、確信に加え更に確信です。生きた信仰は神への奉仕={神の仕える愛を表す行動}と従順によって示されます。どうすれば信仰を強めることができるでしょうか?
「信じていればなんとかなる 大丈夫」という表現は、深刻な問題やストレスの多い状況に直面している人を励まし、慰めるために使われます。
しかし、聖書に書かれている信仰とは一体何でしょうか?そしてそれは本当に機能するのでしょうか?
新約聖書では、英語の信仰という言葉はギリシャ語のピスティスの翻訳に使用されています。ニュー・ストロングの聖書単語拡大辞典には、「ピスティスは、神またはキリストに対する信頼(または信用)という主な概念を伴う信仰に使用され、同じものへの信仰から生じます。」
「信仰」とは、信頼、信頼、保証、信念を意味します」
聖書はまた、ヘブライ人への手紙 11章1節で次のように定義しています。
信仰は、私たちが望んでいるがまだ受け取っていないものの内容や保証です。信仰(自信、信念、信頼)は、目に見えないもの、つまり目に見えない霊的なものの 現時点で実現が未然でも将来への確信する証拠でもあります。
信仰は、祈りが答えられる前、または個人が神から求めたものを受け取る前に生まれます。もし私たちが求めたものを現時点で受け取ったのであれば、信仰は必要ありません。
砂漠で見上げた星の数 海辺の砂のように数えられると言う神の言葉をアブラハムには子供は生まれていませんでしたね。アブラハムはその時、神の言葉を信じて義とされた主なる父なる神です。実現していなかった神の言葉から将来的に実現すると信じる信仰を持った訳ですね。
聖書箇所 創世記15:1〜6
ローマ4:1-12
この見えない事を信じる一例は、マタイ 9 章 27-30 節にあります。そこでは、二人の盲人がイエスのところに来て、癒してくれるように頼みました。イエスはまず彼らに、「わたしにそれができると信じますか」と尋ねました。
すると彼らの返事は、「はい、主よ」でした。 「それからイエスは彼らの目に触れて言われた、『あなたの信仰に従って、そのようになさい』とすると、彼らの目は開かれた。」 イエスが視力を与えてくださるという彼らの信仰と確信こそが、彼らが望んでいた実質、現実でした。
それはまた、彼らが求めたものを受け取るだろうという証拠や信頼を彼らに与えました。彼らは信じていた;つまり、彼らはそれが実現されるだろうと事前に信じていたのです。
旧約聖書の信仰の例 もう一つの例は、ネブカドネザル王の黄金の像にひれ伏すことを拒否したダニエルの3人の友人の例です。この像にひれ伏すことを拒否した者は、生きたまま火の穴に投げ込まれると脅されました。
像に頭を下げることを拒否した3人のユダヤ人の若者(シャデラク、メシャク、アベド・ネゴ)はネブカドネザル王にこう言いました。王よ、私たちをあなたの手から救い出してくださいます。
しかし、そうでない場合は、王よ、私たちはあなたの神々に仕えず、あなたの立てられた金の像を崇拝することもしないことをあなたに知っておいてください。」(ダニエル3:17-18)。
彼らは、神がどのようにして自分たちを火の炉から救ってくださるのか、その時点で肉体の命を救うことによってか、後の復活によってか、事前には知りませんでした。彼らの信仰や信頼は、彼らが望んでいたものの本質であり、まだ見ていない、あるいは受け取っていないものの証拠でした。
彼らの信仰や信頼は、神に仕え、神の戒めに従うことに基づいて築かれました。彼らは神の戒めに従い、ひれ伏して他の神を崇拝しなかったため、神が自分たちを救ってくれると信じていました。
神の戒めに従うべきだというヤコブの教えは、私たちは行いによって救われるということを教えていると主張する人もいるかもしれません。
そうではないのです。使徒パウロは次のようにこのことを明確にしています。それは神の賜物であって、行いによるものではなく、だれも誇ることがないようにするためである」(エペソ2:8-10)
パウロは、誰も救いを得ることができないこと、そして信仰自体が神からの賜物であることを明確に理解し、書きました。しかし、その次の節で、彼は続けて、私たちは神の作品であり、「良い行いのためにキリスト・イエスにあって造られ、神は私たちがその良い行いの中を歩むようにあらかじめ備えてくださった作品10節)と言いました。
ヤコブと同じように、パウロも生きた信仰には神と神の律法への奉仕と従順が伴うことを知っていました。
パウロはローマ人への手紙 3 章 31 節で次のように書いています。確かにそうではありません!それどころか、私たちには法律=神の望んだ基本があります。
神は信仰を求める者に信仰を与える 信仰=神の思いは、祈りと神の言葉 聖書の言葉を通じて神に近づくことによって強められます。 パウロはピリピ{フィリピ}の人々に、「何も思い煩うことはありません[心配しないでください。
すべてにおいて感謝を持って祈りと願いによって、あなたの願いを神に知らせてください。」と言いました。
そうすれば、人知を超えた神の平安が、キリスト・イエスを通してあなたがたの心と思いを守るでしょう」(ピリピ4:6-7)。
ピリピ{フィリピ)の神の教会の会員は神の言葉を信じ、神の戒めに従いました。彼らが信仰の祈りにおいて神に思いを捧げるというパウロの指示に耳を傾け、従うにつれて、彼らの信仰(信仰と信頼)は増大していきました。
信仰を高めるもう一つの方法は、公に説明されている聖書の信仰の例を読んだり聞いたりすることです。
このことはローマ人への手紙第10章17節に記されています。 「ですから、信仰は聞くことによって生まれ、聞くことは神の言葉によって起こります。」
今日、私たちは完全な神の言葉をさまざまな人々の証と多数の翻訳聖書で入手しています。
聖書は人類に対する神の霊感による言葉です。聖書を読むと、神とイエス・キリストが祈りに応え、不可能な状況を乗り越えさせてくれるという信仰(信頼と確信)が高まります。
信仰とは何ですか?要約すると、信仰とは神とイエス・キリストに対する信頼、確信、自信です。生きた信仰とは、単に神の存在を信じることではありません。
それは神への奉仕と従順によって証明されます。 私たちが熱心に神に求め、祈りと御言葉を読むことによって神に近づこうとするなら、神は私たちの信仰を強めてくださいます。
基本的には人を 家族を信頼できる 信頼するように、神が居られ発した言葉、聖書通りになるのだと信じきることであり 霊の父親である神への信頼を深めること 神の言葉は真実であると思い期待することです。
何故?信仰が必要か? 父なる神が居られ救いの約束、天国がある以上 地獄も有りからです。